チェシャ猫は泣かない。
十八時五十二分、彼女の誘いで外に出た。
二月の公園は予想通りの寒さだ。
ブランコの横に立つ彼女は、俺を見つけると小さく頷いて、そのまま顔の半分をマフラーにうずめた。
隣に並び、マフラーを口元まで引き上げる。
彼女が口を開くまでは黙っている、という意思表示のつもりだったが、思いの外早く口火は切られた。
「別れる」
「そっか」
「それだけ?」
「うん」
「そっか」
一呼吸置いて彼女はもう一度「そっか」と繰り返し、息を吐き出した。
安堵したように見えた。
「明日、彼に言ってくる」
「ん」
「そのあとカラオケね」
思いがけない単語に面食らうが、彼女は事も無げに続ける。
「カラオケフリータイム特大トリプルベリーパフェ付き。あ、ハニトーもいいな」
「振った後に?」
苦笑を混じえて言えば、マフラーから抜け出した顎がゆるり左右に揺れる。
「振られたあとでもあるんだよ」
彼女は一瞬苦い色を浮かべ、すぐに白い息で消した。
「今日は月が見えないね」
「……あー、うん」
生返事をしながら空を見回す。
さっきビルの横にあったような、いや街灯だったかもしれない。
そもそも月が見えるかどうかなんて、もう随分と気にした覚えがない。
「どんなに近くにいたって、だめなんだね。大事に思ってなくちゃ見えなくなる」
彼女の横顔を、マフラーを直す素振りで盗み見る。
相変わらず顔はうずめたまま、視線だけで空を見上げていた。
月を探しているのだろうか、それとも。
そんな考えを見透かしたように、彼女の視線は空から俺へスライドした。
いつもと変わらない、チェシャ猫を思わせる笑顔だ。
「ハニトーは奢ってよね」
「なんで」
「タンバリン叩いてあげるからさ」
「いらねーし」
「言うと思った」
夜の公園に彼女の笑い声が響く。
どちらからともなく歩き出し、家路を辿る。
寒さはいつしか気にならなくなっていた。
「ねぇ」
「ん」
「ありがと」
隣を見やる。
彼女はまっすぐに前を見据えていた。
その顔に浮かぶ、チェシャ猫じゃない笑顔に驚いた自分が悔しくて、
「言うと思った」
マフラーの中、悪態をついた。
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