承和の変とは

承和の変の本質について

承和の変とは、承和 9 年(842)に仁明天皇の廃位と皇太子恒貞親王の擁立を企てたとして、伴建岑と橘逸勢が流罪となった事件である。国史大辞典には、「恒貞親王はいうまでもなく、主謀者伴健岑や橘逸勢にも反乱を起すべき理由が考えられず、真相は道康親王の立太子をもくろむ藤原良房によって仕組まれた陰謀事件であったと考えられる。」とある。この事件後、恒貞親王は廃され、藤原良房の甥の道康親王が立太子された。このことからも承和の変は、藤原良房の陰謀によって引き起こされたとされていた。

これに対し、玉井力氏が、嵯峨天皇・仁明天皇父子を中心に勢力を振るおうとする人々と、淳和天皇・恒貞親王父子を中心とする勢力との対立が事件の根底にあったとしている。また福井俊彦氏は、淳和天皇・恒貞親王父子を中核に形成された、皇太子時代に春宮坊に仕えていた官人が天皇即位後に急激に昇進して政治勢力となる、いわゆる藩邸の旧新体制の打破を目的としたものであると論じている。承和の変では、伴建岑、橘逸勢だけでなく恒貞親王との関係の深かった大納言藤原愛発、中納言藤原吉野、文室秋津等が解官、左遷された。また春宮坊の官人 60 余名も左遷されている。さらには恒貞親王が廃され道康親王が立太子された。この点からも藤原良房による陰謀とみるのではなく嵯峨天皇・仁明天皇系と淳和天皇・恒貞親王系との争いとみることができる。以下本論では嵯峨天皇・仁明天皇系と淳和天皇・恒貞親王系の官人等の対立という視点から承和の変の本質について私見を述べたいと思う。

前述したようにこの事件は伴建岑と橘逸勢も流罪だけでなく恒貞親王を含むその周辺の人物までに影響が及んでいる。この結果、恒貞親王が廃され仁明天皇の子、道康親王が立太子となりその後皇位を継ぐこととなった。このことから皇位継承を絡めて考察する必要がある。恒貞親王の後見だった父淳和天皇の死後新たに後見となったのは嵯峨太上天皇だった。このことから嵯峨太上天皇は恒貞親王に皇位を継いでほしいと考えていたと考察できる。しかしその嵯峨太上天皇もなくなり恒貞親王の立場が弱くなった。また仁明天皇側の官人たちからすれば恒貞親王が即位することによりその周辺の官人等が昇進すれば立場が弱くなる。そのため神谷氏の「後見のいなくなったことを好機とみて嵯峨天皇・仁明天皇系の官人等が道康親王の立太子に向け動いたと考えることができる」という考えは十分にありえたことだと考えることができる。また事件後仁明天皇の皇統に統一されていることから仁明天皇の嫡子継承という思惑もあったと考えられる。そのため藤原良房も関わっていたとみることができるが単独での陰謀とみるのではなく、仁明天皇と藤原良房含むその周辺の官人等によって起こされた事件とみることができる。

これらの点から恒貞新王の即位によって不利になる藤原良房を含む仁明天皇側が道康親王を立太子にする目的で起こった事件とみることができる。

事件の事後処理、及び処罰の対象の考察から、この事件の本質は道康親王を立太子としたい仁明天皇と官人等のグループが恒貞親王を即位させたい思いがある、淳和天皇や恒貞親王時代に春宮坊に仕えていた藩邸の旧臣等を排除した皇位継承を絡めた天皇と天皇に仕えた官人等の争いとみることができる。また最近は、減ってきたが藤原氏による他氏排斥とみる説もあった。しかし橘逸勢や伴建岑は橘氏や伴氏を代表とする人物でなかった点、大納言藤原愛発や藤原吉野など藤原氏も左遷されていることからこの説は否定されている。

参考文献

(1)            国史大辞典(執筆は玉井力氏)項
(2)            「承和の変と応天門の変―平安初期の王権形成」神谷正昌 史学雑誌 111―112002 年
(3)            「藤原良房・基経―藤氏のはじめて摂政・関白したまう」瀧浪貞子著 ミネルヴァ書房 2017 年

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