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情報の暴食

はじめに

1月2日、10時半からEテレで放送されていた「劇場版ごん -GON THE LITTLE FOX-」を見た。
ごんぎつねは有名だからもちろん話は知っている。

話の細部は知らなかったとしても、おそらく多くの人が知っているであろう、最後に兵十がごんを撃つシーン。

「ようし。」
 兵十は立ちあがって、納屋にかけてある火縄銃をとって、火薬をつめました。
 そして足音をしのばせてちかよって、今戸口を出ようとするごんを、ドンと、うちました。ごんは、ばたりとたおれました。兵十はかけよって来ました。家の中を見ると、土間に栗が、かためておいてあるのが目につきました。
「おや」と兵十は、びっくりしてごんに目を落しました。
「ごん、お前だったのか。いつも栗をくれたのは」
 ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなずきました。
 兵十は火縄銃をばたりと、とり落しました。青い煙が、まだ筒口から細く出ていました。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000121/files/628_14895.html

上で抜粋した部分は、文字数で言うと300文字にも満たない。黙読であれば20秒とかからず読める量だ。

銃を構える部分は、原作では「兵十は立ちあがって、納屋にかけてある火縄銃をとって、火薬をつめました。」としか書かれていない。
劇場版ごんでは、兵十が火縄銃を手に取り、火薬を詰め、本当に撃つかどうか葛藤し…覚悟を決めて玄関に向けて銃を構える。
映像化されることで、このシーンの緊迫感が原作よりも上乗せされていた。
台詞という文字情報がなくても、その間があることによって、兵十の迷いや覚悟が伝わってきた。

私は2022年になって、演劇を見たり、映像作品を見たりというように、本やネットのような文字情報以外のものに触れる機会が急激に増えた。
それを通じて、やっと会話や動作の間による表現みたいなものが分かるようになってきた気がするのである。

今回の記事では、幼少期からずっと続けてきた文字情報の受け取り方と、最近なんとなく分かってきた非言語の表現について考えたことを書いていく。


自分の本の読み方

自分は幼少期からずっと本を読むことが好きだった。ただ、物語や小説を読むことは少なく、図鑑や何かの仕組みの解説など、知識を増やすためのものがほとんどだった。後者の方が面白いから自然とたくさん読むという単純な話ではあるが、前者に面白さを感じられなかった理由は、自分の本の読み方に原因があったことに気づいた。

昔から知的好奇心が強かった自分は、知識を増やすために本を読んでいた。たくさんの知識を仕入れたかったから、とにかく速く大量に文字情報を処理するような本の読み方をしていた。

それと同じ読み方を小説でもしていたから、心理描写を味わうというような読み方を知らなかった。ただ、原因と結果さえ理解できていれば良かった。
ごんぎつねで言えば、「兵十 + 鰻を逃がそうとするごん → 怒る兵十」みたいな理解の仕方をしているのである。化学反応式のHCl+NaOH→NaCl+H2Oと変わらない。理解はしているから国語の成績は良かったが、別に面白いわけではなかった。


情報の暴食

この1年で見てきた様々な演劇や映像作品を通して、会話の間による表現みたいなものを何となく理解した。今日見た劇場版ごんで、小説にはなかった動作の間による表現を見た。
本来、小説を読む時はこのような間を自分なりに頭の中で作り出しながら読むものなのだろうかと思った。

何年か前に友人とスタバに行った時、滅茶苦茶喉が渇いていたから、席について3分もしないうちにフラペチーノを飲み切ってしまった。この時友人に「もっと味わって飲みなさいよ」と窘められたことを、ふと思い出した。
自分には「味わう」という感覚が欠如していて、それが小説を読む時にも出ていたんだろうなぁと思う。

とにかく知識に飢えていた幼少期の自分は、飢えを満たすために少しでも多くの情報を摂取する必要があった。そのため自然と「速く、大量に読む」という姿勢が定着していった。表面上は小説も図鑑も教科書も「本を読むこと」だから、小説も同じ読み方をして、面白さを感じられずに読まなくなっていった。

手当たり次第に文字情報を頭に叩き入れていく自分の本の読み方は、例えるならば「情報の暴食」だなあと思った。

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