見出し画像

【歴史】熊野堂横穴墓群の鈴釧

ここの蝦夷穴には、興味深いモノが発見されています。
人骨が多く見つかったことから墓場だった所なのですが、高舘山の下にあります。

画像1

鈴釧(すずくしろ)とは・・・

古墳時代後期に用いられた青銅製装身具の一つ。
円環形の銅釧に鈴をつけたもので、鈴の数は五~六個のものが多い。ほかに環体が扁円形や卵形のものもある。
いずれも縄文時代の巻貝製貝釧を祖型とした呪術的なもの。
※コトバンクより

柴田町炭釜横穴と同じ形状の鈴釧であり、
ほぼ、同じ宗教があって北上して弔いをしてきたことは確かでしょう。

画像2

熊野堂横穴墓群

画像6

「ここは中世以降、東北の太平洋側沿いにおける熊野信仰布教の拠点となった、名取熊野三山の霊城に所在し、横穴墓群はこれまで正式な調査はなく、
太平洋戦争中に防空壕に使用されたこともある。
分布状況から約200基は築造されていると推定される。

画像3

この墓の特徴は、階段状に築造されており、構造的に玄室内は、
家型が一基もなくアーチ型かドーム型で、玄室への通路が短いものが多い。
年代は7~8世紀頃。

柴田町炭釜横穴墓群に共通するが規模は宮城県でも有数を誇るものである。」

画像4

蝦夷穴は、柴田町にも数多くあり、
興味深いのは、深山(岩沼)のよく登っている山ですが、
柴田町側の方の道沿いに、炭釜横穴があります。

画像6

船岡城址に復元されている上野山古墳群は、
柴田町にあり、奈良から平安時代の古墳です。
「寺後一号墳」の復元。

古来、巫女が五色の音を祈祷道具として使用していた説がありますが、古代豪族(6世紀頃)の陸奥開拓の面影がある所です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?