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【伝説】岩沼の斎宮『おすずひめ』物語

宮城県南にある岩沼市に「斎宮伝説」が伝わります。
名取老女伝承の守家の遠祖が、藤原叙用で斎藤姓(斎宮(※1)の管理監督の役職)を、名乗る由縁があると考えれば、岩沼の斎宮伝承は、豊穣をつかさどる「ケ」の巫女が存在していたことと繋がります。

地元に伝わる「おすずひめ」物語について。

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おすずひめ (岩沼物語より)

ある時、村に、おすずという一人の女性がやってきて、屋敷で女中仕事がないか、と探していた。
「女中仕事なら長谷釜の齋(いつき)屋敷に行ってみれば・・・」と、村の人がいう。
そのすすめでやってきたのは、佐吉という者がいる所。

佐吉「女中仕事がしたいって、うちは金持ちでねえから、それほど給金は出せないよ」
おすず「いいえ、お金はいりません。ただ、おいていただければ、それでよいのです」
佐吉「わがった。雇うべ。ところで名は?」
おすず「すずと申しまするー。」

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すずはとてもよく働いた。
朝から晩まで水仕事、針仕事、まかないまで何でも手早くこなす。
とても素直できれい好き。特に食べる物をたいそう大切にしていた。
すずがきてからというもの、齋家はとても明るくなり、そして少しずつ豊かになっていった。
しかし不思議なことが一つだけあった。
家中のだれひとりとして、すずが食事をとる姿を見たことがないのだ。
どんなにまわりがすすめてみても決して食べようとはしなかった。

佐吉「どうして食べねえんだ?」
すずは笑ってこたえない。
ある晩の事、家の人が寝静まった真夜中、台所でなにやら物音が聞こえる。
気になった佐吉はそっと起きだして、様子をうかがってみると・・・
すずがぽつんと一人、コトコトと鍋でなにかを煮始めたところだった。
佐吉はこれだ!とばかりに鍋の前に来て蓋をあけようとした。

おすず「あけてはなりませぬ!」
佐吉「えい、見せろや!」
佐吉はすずが止めるのもきかず、鍋の蓋をあけた。

そこにはぐつぐつと、米粒が少しだけ入った得体の知れないおかゆが煮立っていた…
佐吉「これはどうしたんだ!?」
おすず「これは流しの口に袋をかけ、みなさまが食べ残したものや
すてたものを、集めては煮込んで食べています・・・」
佐吉「どうしてこんなことを・・・?」
おすず「・・・・・」
すずは首を振るばかりで、佐吉がいくら問いつめても一言も口をきかなかった。

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あくる朝、いつも通り、すずは水桶を持ってまかないの水を汲みに井戸の方へ出て行った。
だが、いつまでたっても戻ってこない。まかない女中が様子を見に行くと
井戸端に水桶がポツンとおかれ、その横に履物がきちんとそろえてあった。
女中はあわてて井戸の中をのぞいたが、飛び込んだ様子はない。

すると甲高い鳥の鳴き声!
振り返ると千貫深山に飛んでいく白い大きな鳥の姿が見えた。

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女中はあわてて主人の佐吉に告げる。
佐吉も家中のもの総出で一日中あちこち探したがすずも鳥もみつからない。
やがて日が沈み、はるか西の方角、そう千貫深山(みやま)のあたりに
まっかに輝く火の玉がぽつんと上がっていくのが見えた。
佐吉「あれはたしか瑞應庵(ずいおうあん)のあたり・・・」
瑞應庵は大震災の直後、人々の心を救うために、遠く伊勢神宮から
つかわされた巫女たちが住まう尼寺であった。

数日後、番所から役人がきた。
役人「この様なおなごがここにはたらいていると聞いた。
隠し立てすると身のためにならんぞ!」
佐吉「そのようなおなごは見たこともごぜえません。
確かに先日まで飯を食わねえ女中が働いておりやしたが、
急に鳥に姿をかえて、深山の方へ飛び去ってしめいました。

佐吉 「きっと伊勢のお社(やしろ)からつかわされた巫女様が
鳥に姿を変えておいでになったものでごぜいましょう。
食べ物を大切にしろとのありがたいおぼしめしです・・・」
そう言うと深山に方に向かい、家中の者が手を合わせた。
それを見た役人もそれ以上問いただすことはなかった。

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それから女中たちの間では、おすずがお伊勢様の使いだったと知り、
深山大権現になって飛んでいったとか、おすずによく似た白拍子が、
義経様というお侍さんと一緒にえぞを向かっていく船を見たなど噂していた。
それからというもの村人たちは食べ物を粗末にすると、
「おすずひめが泣ぐど」と言って子どもたちをいましめたそうです。

おすずひめの舞台になった場所

物語の舞台となった「深山(みやま)」は、千貫・深山(標高191m)と称し、リクリエーションとして岩沼憩いの山となっています。
阿武隈川が大きく蛇行している位置に沿って峰が続いており、多くの伝承を残します。

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深山から点々と北へ製鉄場を求めて移動し、最終的に高舘山に落ち着いた痕跡が、御堂や石碑、不動尊・庚申塔と共に残されています。
民家の裏手の山にかつて斎宮(瑞慶庵)がありました。
(長谷山瑞慶庵の額のみ残されている:個人宅)

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民家の裏山(廃寺跡)には、享保11年智照妙信尼僧の墓碑や、明治時代の馬頭観音碑などが残されています。

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屋敷前に鎮座する庚申塔。

天照大神に仕える斎宮の巫女は、神々に食事を与えるウケモチ(保食神)とされます。
農業の発展・推進のために、稲をもたらした豊穣の意図があり、
「餅が白鳥になって飛んで行く秦氏伝承」のように、(※2)
「おすずひめ」は、各地で語られるようになります。

おすずひめ伝説の特徴

【表のおすずひめ】
異類婚としての 「飯炊き女」
全国に伝承される異類婚と分類される昔話。
化ける姿(正体)をあかされると姿を消す。(鶴の恩返しなど)
女性の神秘的な体の変化を現した→少女期~成人~老女。幼い少女と決められた中将姫(内侍(ないし)という天皇の身辺に奉仕した女官とは、
成人して一般の女性になり(皇室からの離脱や武士の妻など)、
尼として生きる運命を強いられたでしょう。

【裏のおすずひめ】
・タタラ場で働く「飯炊き女」
「金のありかを知る者」→都から派遣された皇女なり巫女は、
砂金取りの豪商(金売吉次伝承)の妻になることで、都(朝廷)と東北地方の金鉱脈(鉱山資源)を目的に契約させる政略結婚がありました。

 ※例①岩手県の「オソトキ(飯炊き女)」伝承。(玉山金山)
黄金の牛とともに坑夫千人が落盤で死に、信心深いオソトキだけが助かったという伝説。

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※オソトキ伝説については、こちらを。

※例②安珍と清姫伝説(宮城県白石、福島県白河に伝承あり)清姫伝説も熊野信仰に関係します。(宮城県白石市の安珍・清姫伝説↓)

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宮城県白石市不澄ヶ池68  (新西國霊場刈田札所第三十三番)

「ケ」の食物起源・豊穣

家都御子大神(ケツミコノオオカミ)または家都美御子大神(ケツミミコノオオカミ)は、「熊野神社本宮」とされる。

ケツミコの「ケ」とは、食物起源が由来の食べる=エネルギーのことをさし、もしくは、「ケガレ」の「ケ」とも言われるが、東北地方では、食物起源のハイヌヴェレ伝承(※3)が各地に伝わっています。

 「ケ」=食べ物の言葉であり、(青森弁など)食物(穀物)起源がルーツの豊穣の意味があり、神々の神話が民間信仰に浸透してきた物語が斎宮伝承として岩沼に残されています。

このように東北各地には、タタラ場に従事する女性、表では斎宮として遣わされた巫女、との違いがあります。

自立した精神性を促す祈祷=震災、暴動、蝦夷の騒乱による鎮魂のために、都からやってきた巫女は、ただ祈ることを生業として陸奥へ派遣された幼い少女だったかもしれません。

 人前で食事をしてはいけないタブーとは、神との契約をひたすら守るために神聖な場を信じてきた巫女のけなげな忠誠心だったと認識させられます。
 皇女から一般の女性に離脱した人や、戦乱で夫を亡くした妻、少女から神々に仕え、尼になる運命を強いられた女性たちは、羽黒修験や熊野修験の女性の講により保護され、山中で「こもりく(隠国)」をした歴史が深山に眠っているのです。

 震災の爪跡、蝦夷征伐で失った多くの村を目にして、藤原家は、左遷された皇女、貴族、蝦夷の鎮魂のために、「祈る斎(いつき)家」としての職務を引き受け、少女たちが大人になり、老女となってようやく光になったみちのくの「名取ノ老女」を想像したでしょう。

【グリーンピア岩沼】 いろんなウォーキングコースがあります。

https://www.city.iwanuma.miyagi.jp/kenko/kenko-zukuri/greenpia/index.html

※1 斎宮(さいぐう、さいくう、いつきのみや、いわいのみや)とは、
古代~南北朝時代にかけて伊勢神宮に奉仕した斎王の御所である。
伊勢神宮または賀茂神社に巫女(斎王)として奉仕した未婚の内親王。
『日本書紀』によれば、崇神天皇が皇女豊鍬入姫命に命じて宮中に祭られていた天照大神を大和国の笠縫邑に祀らせたとあり、これが斎王(宮)の始まりとする。

※2 秦氏とは、応神天皇の時代に秦氏一族(数千人から1万人規模)が
当国に帰化したとの記録が残っており、 天皇家に協力して朝廷の設立に関わったとされる渡来人。(稲と機織をもたらした)

※3 ハイヌウェレ型神話とは、 世界各地に見られる食物起源神話の型式の一つで、殺された神の死体から作物が生まれたとするものである。
その名前は、ドイツの民俗学者であるアードルフ・イェンゼン(英語版)が、その典型例としたインドネシア・セラム島のヴェマーレ族(英語版)の
神話に登場する女神の名前から命名したものである

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