【神社】名取熊野三社の歴史
名取熊野三社の創建由来
名取の熊野神社は、本宮、新宮、那智神社があり三社をお祀りしています。
全国に3000社以上ある熊野神社のうちおよそ700社(4分の1)が、
東北地方に存在すると言われ、その東北の熊野信仰の中心が名取熊野三社です。
仙台湾を熊野灘、名取川を熊野川、高舘丘陵を熊野連山に模し、
本宮・新宮・那智の三社をそれぞれ別に祀っており、
紀伊熊野の三社それぞれを地理的・方角的に同じ状態で勧請しているのは珍しく、全国の熊野神社の中でもここだけとされます。
高舘山に坐す熊野神社は、城も築かれていた高舘山と海が中心になっています。名取の那智神社にも滝があり、本来は飛龍大権現とされ、
海(閖上)からもたらされた龍神とみなされる説もあります。
紀州の熊野那智神社と同様、那智滝を神格化しています。(他に熊野夫須美神)
2019年、陸奥国熊野神社創建1300年の「お浜降り」が執り行われました。
古くは、719年名取の熊野那智神社の創建と伝わり、
先に述べた閖上の漁師が観音像(十一面観音)をみつけ、
高舘山に羽黒大権現として祀ったことから由来します。
「お浜降り」は、閖上の海まで高館山から神輿を担いでおろす祭りで、
21年ぶりの復興祭りでした。
お浜降りは羽黒大権現の里帰りのような神事で、
地域住民の高齢化などで1998年以降、行われていませんでした。
閖上浜から引きあげたとされる十一面観音菩薩像は、別名「高舘観音」と呼ばれています。
観音堂は熊野那智神社にあったのを(駐車場そばの御堂)から、現在、紹樂寺に安置されています。
紹樂寺は、奥州札所三十三観音一番。
熊野三社は、名取老女勧請の他『熊野年代記』に、
渡海と呼ばれる捨身行に延喜19年(919年)に陸奥国の13人が
同行したことが書かれており、東北地方の熊野信仰は、平安時代末期(12世紀)頃から本格的に受容され、熊野神社が各地に勧請(かんじょう)されていったと考えられます。(名取市のHPより)
札所観音霊場は、西国、板東、秩父をあわせて百観音霊場としたのが始まりとされます。
秩父の札所には、13人の権現の図が記録されています。上に熊野大権現。
妙見菩薩に蔵王権現、閻魔大王など。
高舘山勧請より古くは、下余田(しもよでん)にありました。
現在、熊野三社は個人宅になっています。
年代は不明ですが、1123年に高舘山に遷された歴史背景があります。
老女の徳を偲んで文化8年(1811)地元の人々によって名取老女の碑が建立されました。
しかし、それぞれの熊野三社を同時に置かれたかは定かでなく、
最初は神社というよりは、宮や小さなお社として存在していた可能性もあります。
熊野神社(新宮)の老女宮
正確な創始年代が不明ですが、最初は新宮社、本宮社、最後に那智社とタイムラグがあるとの説もあります。
新宮社の奥には、新宮社証誠殿、那智飛龍権現社、本宮十二社権現社、
および老女宮があります。
熊野堂今昔風土記によれば、
名取の熊野神社(本宮)を改築工事中に発見されたもの。(昭和60年)
かつて境内には若王子御宮(白山宮)、八社神宮、護法善神宮、稲田宮、
人皇七十四代宗仁天皇宮が存在したが、現在はいずれも消失しているそうです。
若王子御宮は現在老女宮に祀られる菊理媛神の元宮と言われていたと。
八社神宮については現在、玉垣内の8本の角柱として祀られます。
東北はなぜ熊野信仰が多い?
熊野水軍の東北平定が関わってきます。
領地を荒らすように海を争い、そのもとじめが熊野水軍(熊野別当)で、
昔は陸路より海路を使用していました。
川を使って水路を切り開き、
紀州の地形を宮城・名取の地にあわせたと考えられます。
北上川の河口や、石巻の河口付近には、南朝の跡が残っています。
閖上から朝廷から入ってくることがあり、
熊野信仰を屋敷神として置いてきた経緯があるのです。
特に「藤白鈴木氏」は、東北地方に影響及ぼしました。
※藤白鈴木氏が代々神職を務めた藤白神社
(始祖は饒速日命 )
熊野地方で勢力を誇った熊野三党(榎本、宇井、鈴木)のひとつ。
または熊野八庄司のひとつとされ、家紋は穂積氏に由来する「抱き稲」、
替紋は熊野別当の藤原氏に由来するとされる「下り藤」。
幕紋は「八咫烏」です。
東北の古代史にも繋がる藤白鈴木氏と穂積氏。
数多くの伝承から、穂積氏が拠点とした室根山へ、
歴史会で訪ねたことがありました。
室根山については、後で、記録しておきます。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?