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高舘山を歩く②本丸から那智神社へ

名取の地理

山路には岩盤が隆起した地層がみられます。

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紀伊半島は、3つの地質体からなる大地が、プレートの沈み込みの影響を受け、黒潮に突き出す形で隆起をした地域です。

そのため、険しい山と大海原が隣り合うという位置関係にあり、大きな岩盤のうえに紀州熊野信仰が広まった理由のひつとに、地質が大きく関係しています。※南紀熊野ジオパークより

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名取の高館層は、流紋岩・安山岩・玄武岩の溶岩及び火山角礫岩・凝灰角礫岩・軽石凝灰岩からなり,主に名取川以南の高館丘陵に分布します。

名取川は、宮城県仙台市および名取市を流れ、太平洋に注ぐ一級河川。
名取川水系の本流。

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歌枕として知られ、埋れ木(仙台亜炭)と共に詠われてきました。

宮城県仙台市太白区西部の奥羽山脈神室岳(かむろだけ、標高1,356m)
に源を発し概ね東へ流れ、太白区山田付近で仙台平野に出ます。

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仙台市若林区日辺で広瀬川を合わせ、
仙台市若林区と名取市の境界から仙台湾に注いでいます。

那智ヶ丘団地から見えにくいですが中央に名取川。昔は、今より南側に川があったそうです。

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名取川の由来は、大まかに2つの説でいずれもアイヌ語説。

・アイヌ語の「ナイトリベツ」(渓谷)に由来。

・昔、下流部に入江があったため、
アイヌ語の「ニットリトン」(静かな海)に由来。

本丸から那智神社へ

高舘城跡に到着。
この看板の奥の森へすすむと、本丸があった所。

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元の本丸は、「羽黒城」と言われ、
近くに太白区山田羽黒台という地名があり、そこに羽黒神社があります。

以前より奥州陸前国名取郡山田村旗立山山頂に祀られて鎮座しています。

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本丸は何もなく、現在は、森と化しています。

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杉を植林したので杉林になっており、
何もないようですが、中心が丸くなっているような所もあり?
お掘りも周りにありますが、わかりにくいです・・・

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下の方に北ノ丸があり(↑)

閖上から本丸まで物資を運んできたそうです。
要害としてあったとも考えられており、
都から平泉の通過点として武将たちが利用していたようです。

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馬ではここまで登れないと思いますので、
海から歩いて登ってきたわけです。

それは、食べ物だけではなくて神々も運んできました。

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本丸のそばに大きな樹があります。

そこに「蔵王山」の碑。
この石がどこから持ってきたのかは謎。

この碑についての由来は不明ですが、
閖上の出羽三山信仰と蔵王権現に由来するのではないかと思います。

閖上天正院(行屋:修行僧・修験者などが行をする家)があり
(湊神社所有)月山(阿弥陀仏)、羽黒山(観世音菩薩)、
湯殿山(大日如来)、蔵王権現を祀っています。

こんな言い伝えがあります。

「明治22年閖上中町の住んでいた漁師が、なげ網に出かけ漂流中に、一体の仏像を発見した。
それを拾いあげきれいに洗って保存していたところ、一家全員が腸チフスになった。仏罰を恐れたその家では、早速、仏師に頼み、修復させ行屋におさめたという。」

安置されたのは、奈良県吉野金峯山の金剛蔵王権現の分霊とされます。

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この蔵王山石碑の向かい下に高舘山古墳があります。
全く見えませんが・・・森の中に隠れています。

蔵王麓にも村を治めていた首長と古墳群があるそうです。
青麻山に向かって。
それらと関係する一族の古墳だとしたら、
蔵王山の碑が古墳に向けて建てられていたと想像してしまいます。

この先へ進むと「秀衡が崎」があります。               1175年藤原秀衡が築いたと言われます。

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総代の話しからは、幼少の時に藤原秀衡が遊んだところと聞き、都へ行く途中、高舘城にて秀衡が宿泊したそうです。

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三代目藤原秀衡は、父(基衡)の遺言である義経保護を強く主張し、
その扱いを巡り泰衡と対立、誅殺されたともいわれるが、病死が定説。

「源義経をかくまったことで、源頼朝と対立していた。
頼朝としては、秀衡の病死は好条件にあっただろうが、
その意思を息子の代に受け継がれることなく、              
秀衡の死により奥州藤原氏は途絶えた。

「秀衡を「奥州の夷狄」と呼び、その就任を「乱世の基」と嘆いている。
都の貴族達は奥州藤原氏の計り知れない財力を認識し、
その武力が天下の形勢に関わる事を恐れながらも、
得体の知れない蛮族と蔑む傾向があった。

この「奥州の夷狄」や「蝦夷」という蔑称を秀衡は意識していた
と考えられており、源平の合戦の際に一つも勢力に加担しなかったのも、
普段は蔑称を用いて蔑む傾向があるのに、自分達に都合のいい時に奥州藤原氏を頼ろうとする姿勢に不満を抱いていたことも中立の立場を堅持した理由ともされる。」
Wikipediaより

ちなみに、血液型はAB型。

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奥へ進んでも、ここも森があるだけで何も残されていませんが、あまり木々や植物が生えていない不思議な空間がありました。(↑)
何かの遺構の跡かもしれませんが、全員、ここが一番良い気があったと感じた所です。

よく山の伝説には「天狗の相撲取り場」という場所があります。
そこだけ木や植物が生えないため、丸くなっているという所。

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「秀衡が崎」を後にし、那智神社が鎮座する山頂へ向かいます。小野さんは獣道を歩きたいようですが、私たちは無難に歩きやすい道を歩きます。

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ひたすら登れば40分くらいで登れますが、
小野さんの丁寧な説明を伺いながら歩くこと、
約1時間半くらいで那智神社入口に到着しました。

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