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【歴史】粟田口忠綱の刀と名取との関係

粟田口の刀

金注連については、東山道(※1)に関係すると思われる
京都の粟田口があります。

『風土記書上』には、金注連は989年、
三条小鍛冶が熊野神社御宝物のために作った
とされます。

金蛇水神社と三条小鍛冶の伝承がなぜ、伝わっているのかは、「東山道」に関係していそうです。

数年も前のことですが、県外にお住まいの方から
『あこや姫伝説』について書いていた時に、
連絡を頂いたことがあります。

あこや姫に登場する「名取太郎」というのは、
ご先祖様にあたる人ではないか、と思ったそうで、
ご先祖様は、名取に住んでいた旧家の方でした。

かなり過去の歴史を遡らないとわかりませんが、
あこや姫伝承を広めたのも、熊野修験に関係すると思います。

伝説に「太郎」と称するのは、長男の意味で用いるか、
最初に行った人、開拓した人の名を称して太郎とつけることが多い。

その方から、何度かご先祖様の数々の遺品、
(ホラ貝、槍、印篭、銅鏡など)の貴重な資料をみさせて頂き、
そこに「粟田口忠綱」の名がある刀をお持ちでした。(写真です)

粟田口忠綱とは、
江戸時代中期にかけ、摂津国(せっつのくに:現在の大阪府)で
3代にわたって日本刀制作にあたった刀匠。

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3代とも「近江守」を称しました。
このうち、2代目粟田口忠綱が「一竿子」の号で知られ、
最も評価が高かったと言われています。

※刀剣専門サイトより

粟田口忠綱の関係を考えると、
粟田氏に「三条小鍛冶宗近」がつながります。

おそらく、金蛇水神社の刀の伝承をもたらしたのは、
粟田氏が関わっていると思います。

京都の東山道

少し、京都の話しを。

数年前に京都へ行った時のこと。偶然、宿泊した付近が東山道の粟田口でした。

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京都の街を歩いていた時に「白川」という風情ある川があり、「もっこ橋」という小さな橋が小川にかかっているような所でしたが、
三条通は旧東海道で、白川橋から東、蹴上付近までの広範囲を「粟田口」 と言います。

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蹴上(けあげ)の地名は、昔、江戸時代くらいには処刑場があり、
処刑される人を蹴っていたことから由来するそうです。

この粟田郷というのは、奈良時代以前から開かれた土地で、
粟田氏が本拠とし、平安京ができると東国との交通の要地や、
軍事上の要衝にあたることから、やがて粟田口(三条口)とよばれ、
京都七口の一つに数えられました。

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鎌倉、室町時代はここを通って馬借や車借など
運送業者が物資を運んだといわれます。

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近くに花園天皇の陵がありました。

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また、粟田神社というのがあり、平安時代末期、刀鍛冶たちが住居を構え、
童子に化けた狐に鍛冶の手伝いをしてもらい、名刀「小狐丸」を打ったという伝説が残る刀匠・三条小鍛冶宗近が有名なのです。

粟田神社には、鍛冶神社が境内にあり、
粟田口の刀工、三条小鍛冶宗近・粟田口藤四郎吉光と、
作金者(かなだくみ)の祖である天目一箇神を祀る鍛冶の神様である。

また「朝日天満宮」という名の社もあり(菅原道真を祀る)
朝日が炭鉱と結びつけられている
こともわかります。

金蛇水神社と似ている伝説のため、粟田口から生まれた刀が、
東海道~東山道への街道を通り、岩沼で完結したと言えそうです。

名取氏の祖

少し名取氏の歴史について。

『続日本紀』に、文献上、名取が初見されるのは、「766年、陸奥国の名取公竜麻呂という人が名取朝臣の姓を賜わった」とされます。

特によく登場する名に、吉美侯部(きみこべ)の氏や部民があり、
上毛野氏、吉備氏、大伴氏、丸子氏など諸説あります。

陸奥国には景行天皇の伝承が多いため、
君→吉備一族の分流ともされる。

早くに陸奥国に開拓にきたのが毛野氏であるため、
毛野氏一族の吉弥侯部氏(君子、浮田国造)が
その伴造(大和政権下にあった豪族)だったと考えられます。

律令制度を早く浸透させるべく、
福島県~名取まで、広げていったのが上毛野氏であり、
特に相馬地方では、浮田国造の大きな古墳(桜井古墳)が残されています。

焼畑(古来伝統農法)を行っていた説もあり、
阿部氏へ姓を賜わる者もいたため、
大伴氏が最終的に阿部氏と組んで名取に居座ったものと思われます。

ところで、興味深い記録があるのですが、

これ以前から、和食の基本である「だし」を昆布でとっていたことがわかっています。

729年、陸奥国名取郡から昆布を納めた時の札(木簡)が平城宮から見つかっているそうです。

この時代、宮廷では、和食のうまみ成分を昆布から
とっていたことがわかっています。

粟田氏と小野篁

ということで、岩沼の竹駒神社に小野篁伝承があるのも、
粟田氏と関係していると言えます。

粟田氏の祖は、

天足彦国押人命(あめのおしたらしひこのみこと)を祖とする
和珥氏の系譜と考えられる。

粟田氏と同族の小野氏がいるため、粟田氏から派生した小野氏が
陸奥へ行き、イナリと狐の刀伝承を記したわけです。→秦氏

よくある伝承ですが、
粟田神社の「我を祀れ」という神のお告げというのは、
清水があるからその水で刀をつくれ」という意味らしく、
金蛇水神社にも清水があった為と思われます。
(鉄がとれた山だったとも)

名取老女生誕地の「志賀」の地名も、滋賀県が定説。
「ヒラ」という平家なり、奥州藤原氏に「衡(ひら)」をもつなり、
滋賀県琵琶湖にある比良山地(ひらさんち)と呼ぶ事も偶然とは思えず、
ここ一帯に、小野氏が占拠していた所だからです。

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比良山地の位置(wikipedia)
(琵琶湖と画像中央左の逆L字型に流れる安曇川に挟まれた山地)

長野県にある穂高神社のご祭神は、安曇比羅夫。

662年、天智天皇の命により水軍を率いて朝鮮に渡り、
百済王豊璋(ほうしょう)を助け、663年8月27日白村江で戦死。
穂高神社の御船祭りの起こりと伝えられます。

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当時の船を再現したもの(穂高神社)

名取の街道(39号線)にも塩の道がありますが、穂高神社前にも「塩の道道祖神」がありました。

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穂高神社前の道

海民は、鉄だけではなく塩も交易の対象でした。その派遣として陸奥にきたのは、藤原実方です。

複雑な海民の一族争いは、東北の太平洋側に多くの伝承を
残したまま、浮かんでくることはないのでしょうか。

※1 東山道(とうさんどう)は、五畿七道の一つ。
本州内陸部を近江国から陸奥国に貫く行政区分、
および同所を通る古代から中世にかけての幹線道路を指す。

陸奥国(現在の福島県、宮城県、青森県、岩手県、秋田県北東部)
陸奥国は7世紀に常陸国より分立。

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