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名取老女とのはじまり

閖上で出会った烏(カラス)

宮城県名取市は、仙台市の南に位置し「住みやすさランキング」
で上位にいつもあがる平野部の住みやすい町。

西から吹く高舘山からの風が、東の閖上(ゆりあげ)の海へ流れ出る場所。
夏は、風があればエアコンが必要ないほど、涼しいのです。

その気を運んでいるのが、 熊野那智神社が鎮座する高舘山

今から1000年くらい前、都から鉄を求めて
峰々を歩き続けた森の道には、タタラの痕跡が残ります。

その風にのって彼らは、辺境の地と言われたエミシが住む地へ、
鉄の採取にいそしむことを生業とする。
そんな世界が広がるのです。

しかし、過去に何度も津波の被害にあい、大地はぬかるんだまま、
何ひとつ残されていません。

2011年3月11日、
大津波が、木々を花々を家々を、
そして人々を、遠い補陀洛の海へ連れていきました。

人々の生活を押し流し、地中深くに沈んだまま、
みちのくの歴史は断られたのです。

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今は雑草が太陽の光を浴びて大地を覆いつくしています。
でも、日和山の松の木は残りました。(写真は2014年)

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高舘山の麓に暮らしを移し、震災後、初めて訪れた閖上。

「みなさん、ありがとう」の札が立っており、
津波で家族を失っても、心の御礼は失っていないのです。

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何も残されていない跡地に、モニュメントが静かに芽を出しています。
ふと空を見上げると、モニュメントに一羽の烏(カラス)が止まっていました。

土からまっ白い芽を出しているシンボルに、黒いカラスが目立つのです。

名取老女を導いたのは、ヤタガラスです。

閖上の歴史は古く、719年閖上の漁師が、海中よりご神体を引上げ、後に高舘山に遷し祭祀します。→羽黒飛龍大権現

海中から引き揚げた観音様の話し(十一面観音像)もあります。
「ゆりあがった」=「ゆりあげ」という地名由来になったという説があり、
高舘山那智神社に鎮座する奥州札所三十三観音霊場の1番になるのです。

名取老女は、震災の津波に何かを感じたのでしょうか。
それから、名取老女が復活します。

復活した名取の巫女

平成28年復曲能「名取ノ老女」国立能楽堂にて震災の復興と文化(特別編)が開催されました。

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別名:護法(ごおう)、「名取おうな」。
1464年に「糺(ただす)河原勧進猿楽」で音阿弥が演じた記録がありますが、以後、上演は稀で明治に入り廃曲となりました。

しかし、平成5年に梅若六郎氏が「護法」(※1)として狂言方を
中心にこの能を復活させ成果をあげ、
平成29年10月1日:名取市文化会館「名取ノ老女」
狂言「名取川」が開催されることとなりました。

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■名取市文化会館
復曲能「名取ノ老女」狂言「名取川」
http://bunka.natori.or.jp/report/8080/

「名取老女」の名はいつから?

古くは、平安末期1156年~1159年『袋草子』(藤原清輔)(※2)
に、「陸奥国より毎年に参詣しける女」と記録があります。

『新古今和歌集』(1205年)
「陸奥に住みける人」

室町時代、1464年になると音阿弥が演じた『護法:名取おうな』に、「名取老女」と記録され、京都から陸奥へ流布することになります。

『熊野堂縁起』(1505年)「奥州名取郡の巫女」

老女ではなく、「名取老尉(なとりのろうじょう)」説もあり、
「尉」について、古代中国では軍事と警察を司る衛門府であったと考えられ
(現在の自衛官の位に「一尉」などとつける:日本の律令制下における官職との事)他、能の老翁の役に対して「尉」や「掾(じょう)」の(国司)説もあります。

謡曲『御法』の中の老女を、老尉に入れ替えたものとした説もあり、
斎藤壱岐は代々、この地方の尉(or 掾)の地位にあったと考えられます。

名取老女はなぜ謡曲の世界で語られる人物になったのでしょうか。
名取老女の長い旅が、始まります。

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※1)護法型・・・前シテ(主人公)が中入しない舞台に残り、
別人が神霊に扮して後シテとして出る形式。

※2)平安時代後期の保元年間(1156年-1159年)頃に
公家で六条家流の歌人であった藤原清輔が著した歌論書。

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