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法は素数を救わない

アメリカにおけるBLMを標ぼうした破壊・暴動・盗難・放火・殺害など

法より正義」を地で行くANTIFA等の主張がまるで正しいものであるかのように喧伝され、正義の相対化を強調して法体系への挑戦を促す言動が増えています。

その危険を端的に指摘してる掛谷英紀氏のツイートを受けて、「法の機能」について若干の指摘をしておきます。

「法」の意味の多義性と誤解

ここでの「」の意味内容を勘違いする人が多いと思います。

人間の意思で特定の目的に沿って設計された法律は特別法に多いです。

しかし、一般法である民法典や刑法典、憲法典などは、多少の揺らぎはあれど基本的には多数人の営為によって醸成された一般的ルールを「発見」したもので、歴史的背景を持つものです。立法化=法律化する以前の「法」を明文化したというものは多いです。

イギリスのダイシー教授は「法の支配」を3つの要素で表しました。

1:正規法の絶対優位
2:法の下の平等
3:市民的自由は裁判所の判例によって確立されたものであること

このうち1番が普遍的な法の支配の内容と言えますが、たとえば3番は、憲法の実質的な諸規範が裁判所の定めた、且つ、実施された個人の権利の結果であること、従って、憲法が国家の通常法の結果にほかならならず、裁判官が作った法(Judge-made law)であるということを意味します。

つまり、ダイシ―教授の法の支配の説明は、イギリスにおける限りにおいてあてはまるということがわかります。そこに「歴史的背景」が絡むのです。

ハイエクの言う【人間的行為の結果であるが人間的設計の結果でないもの

左翼にはその観念がないから、ルールは一時期の特定の人間らが決めたものだと思い「政府が勝手に作ったルールなんて不当であれば破っていいのだ」という態度になり、何が「不当」なのかは彼らがそう思えばそうなるとしている。

これが「法より正義」の実態の一側面です。

ある法が現在では一般的なルールとして妥当しなくなった、という議論はあってしかるべきですが、それを変えるためには手続を踏みましょう、というのが明治以前からもある一般的ルール。

謀反などはそういうルールを破って行われるものであり、それは基本的には「悪」であり、その自覚が必要です。基本的に「悪」であるが、必要性により実行されたルール違反が広く「追認」されて、初めて社会的に「善」になり得る。

「ルール違反でもそれは正義のためだから悪ではない」というのは、この時系列を無視しています。ある種の正義と社会悪とされる行為は両立し得る

「忠臣蔵」に現れる浅野内匠頭長矩配下の赤穂浪士の行動は、こうした葛藤抜きには見てはいけないでしょう。

日本国憲法の「人類普遍の原理」

日本国憲法前文 一部抜粋
そもそも国政は国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。

日本国憲法上の「国民」は、国語辞書的な意味と同じで、日本国民という意味です。ただ、マクリーン事件判決で「権利の性質上日本人にのみ保障されていると解されるもの以外は外国人にも等しく及ぶ」とされているだけです。

日本国憲法が「これは人類普遍の原理」と言っているのは、国政に関する「国民」を対象にするルールに関して、という意味です。イギリスやアメリカやましてやチャイナにおいても妥当する「人類共通の理念やルール」を語っているのではありません。

たまにここを勘違いしている人が居るので気を付けるべきでしょう。

チャイナの「法」と韓非子の法治主義

また、掛谷教授はチャイナにおける法治は、文明社会の「法」や「法治主義」とは全く異質なものであることを指摘しています。

この点は私も過去に書きました。

チャイナの「法」「法治」は韓非子の「法」「法治」に近い。

近代国家における「法」概念との違いは、それは為政者(君主)が民衆を統治するための手段・テクニックであって、多数人によって醸成されたルールの明文化ではないし、「個人」を観念しないということ。

言ってしまえば「エスタブリッシュのための民衆統治マニュアル」です。

ですから、一般国民にとって不利益な内容、一般国民の考え方とは異質なものが混じりこんでいます。その事自体は直ちに「悪」ではないのですが、そういうものであるという認識は必要です。

法は異なる価値観の「個々人」のためにあるのか?

掛谷教授は「法より正義」という立場の者に対する言及を強調するために「違う正義を持つ人々が共存するために法がある」と指摘しましたが、ここは少し注意が必要だろうと思います。

この指摘は、掛谷氏が「正義は人の数だけある。違う正義を持つ人々が共存していくために法がある」という文言に対するもので、その狙いは判然としませんが、この部分は重要だろうと思います。

というのも、確かに「正義」が個人や、ある集団ごとに異なることは論を待たないでしょうが、「法」の役割が違う正義=異なる価値観を持つ「個々人」のためのものなのかというと、それは違います。

法は素数を救わない

法は【「基本的な価値観」を同一にする集団が共存するためのもの】であって価値観が全く異なる「個人同士」を共存させるものではない。

いわば、法は【とても大きい値の最大公約数】だと言えます。

「個人の価値観」という素数の可能性もある小さい値の公約数である必要は無いと言えます。

たとえば人を食用するような人と、共通ルールの下で生活できるでしょうか?するべきでしょうか?

ここで、「司法は多数派から漏れた人を救うためにある」と言われることがあることに注意する必要があると思いますが、それは司法制度の中の人権規定に関する限局的な話であって、法そのものの説明ではありません。

「人権」「権利」とは普遍的に承認されていると言えるものであって、特殊性癖のことではありません。

そこでは個人の価値観など基本的に重要ではありません。裁判規範として「一般通常人の視点」が基準として持ち出されて判断されることが多いのはそのためです。

掛谷教授のツイートは「基本的な価値観を共通にしつつも個別の正義が違う場合」について述べているんだろうと思います。

法は素数も手続に基づいて平等に扱うこととした

法は素数を救わないとは言いましたが、「基本的な価値観が異なる者は人権を無視して排除して良い」などとは決して言っていません。

どんなに異常な犯罪者であっても、適正手続きによって成立した法律に基づく刑事手続に基づいて処分されます。異常だからといって、その者を処罰するために新たに立法して処罰することはありません。

現代社会では素数、つまり基本的な価値観が異なる者であっても、手続に基づいて平等に扱うこととしたのです。

この手続が不平等・非対称なものである場合には、それは文明社会においては正しい「法」と理解されることはありません。

海外に居る間に行為した外国人にすら刑罰が適用され得る中国共産党中央委員会が香港市民の意思の反映無しに成立させた香港国家安全維持法というのは、まさにその典型例と言えるでしょう。

チャイナにとってはその適用は「法律に基づく適切な措置」と言えますが、それは手続的な瑕疵があるという意味で、我々文明社会においては正しい法とは言えません。

以上

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