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たくさん泣いたけど大丈夫になりました。

子どもの昼寝中。
無我夢中になって本を読んだ。
わたしのガチ恋相手、堺雅人のエッセイだ。

堺雅人の書く文章は、
頭の良さと品が感じられるのはもちろんで、
絶妙なラインの皮肉がきいていて、でも最後には温かい気持ちになる。

なお一層、好き!
という気持ちを確かめたり
第一線で活躍してる人と自分の力量を比較したり
そんな人の奥様となられた菅野美穂とは…と遠くを見つめたりして
読む以外にも色々忙しくしている。

そして何よりこの時間は何にも邪魔されない。
家族のことを考えたり、今日の夕飯の献立を考えたり、嫌なことを思い出したりしない。

あぁ、救われる。

エッセイが届いたのは1週間前。
ガチ恋相手の手記なんて、我先に貪りつきたいのに
好きな文章を読むということをここ数日忘れていた。

というのも、私の中でちょっとした騒ぎがあったからだ。

数日前、わたしが普段個性を出す練習?として利用しているスタンドFMという音声配信アプリで、浮かれた放送をした。
いや、浮かれていると同時に、
聞いてくださっている方の不安を覚える放送をした、とコメントなどであとから気付かされた。

自分の配信についたコメントは
自分の至らなさを受け止める大事な材料となった。
情けなさを猛烈に恥じながら、本当にありがたいと思った。

のだけど、これで終わらなかった。
発信してから数時間後、
某絶望系インフルエンサーに私の配信を取り上げられ、
こんなふうに考えてるのは本当にマズイ!!!
と、アドバイスではなく、あくまで感想を配信された。

でもそこには事実もあれば、少し違うこともあるし、注釈をつけないと誤解されることも含まれていた。

だれかが、
単純化がうまくてキャッチーだ
だとそのインフルエンサーを評していたが、
こういうとき、その恩恵を大いに受けた。

そこからは、不安の声や、心配の声、愚か者を断罪する声が、聞こえてきた。
実際には存在しないかもしれないが、
そんなふうに感じられることばかりになった。

これも事実じゃないかもしれないし、
自意識過剰と言われればそれまでだが、
袋叩きのように思えた。

一つ一つは小石でも、いくつか投げられればそれなりに大きい石を投げられたかのように錯覚する。
大きなうねりのような反応は暴力的に思えた。

自分の手の届かないところに、
それも伝言ゲームのように
少しずつ形を変えながらどんどん行ってしまった気がして、
とても疲弊した。

こんなのをとんでもない規模でスルーしている芸能人すごすぎる。
(けど、芸能人を褒め称えて、叩く人を免責するつもりはないし、今回の自分のことと重ねてもいない。ただ、連想しただけ。)

そんなこんなで当日は大泣きして、
(こんなの産後2日目以来!)
あたたかい心配の言葉をかけてくださる方々にまた大泣きして、
翌日は、人の事情も知らんくせに、と苛立った。

苛立ったから、
やめとけ、と何度か自分に言い聞かせながらも
Xにポストした。

そうしたら、慰めの言葉もたくさんかけてもらって
ちゃんとメンタルリセットできた。

ほんとうにありがたかった。

そんなこんなで騒動から3日目以降、比較的平和に暮らしているが、
音声配信という音声配信から距離を取り、
自分のリアルのフィールドで穏やかに暮らしている。

今回のようにネット社会に飲み込まれると(何度か吊し上げられているけど😔初めての体験だった!)
リアルの生活の場を忘れそうになる。
ちゃんと、ちゃんと、
直接的な関わりを大事にしようともおもった。

なんてことを思ったら、
堺雅人も同じことを言っていた。
いや、もちろん文脈は全然違うけど、
俳優という非日常を日常にしている職業だからこそ、日常生活を大切にしたいという文脈だった。

心が疲弊したら散歩と読書。
これわたしの流儀。

p.s

ちなみに、何度か吊し上げられて慣れているわけじゃない。愚か者の断罪としての吊し上げは普通に迷惑だ。
わたしはいっぱい褒めて欲しい人間なのだ。
ってことも添えたくなり〼

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