妊娠検査薬の小窓

銀座や新橋で歌うのは、なんとなく慣れない。きっとわたしがとても洗練されているわけではない歌手だから、地名に気後れしてしまうのかも。でもそのような土地にある店に出演する時、仕事帰りなどに我こそはと出動してくれるお客さんもいて、素直に感謝している。特にKさんは、ライブ後に店から近い帝国ホテルのバーに連れて行ってくれる(どんなに近くてもタクシーに乗る。紳士な彼は短い距離も決して歩かせない)。

帝国ホテルはわたしの大切な場所だ。子供の頃毎年大晦日に、高層階のバイキングに家族で食事をしに来るのが恒例行事だった。味も何もわかっていなかったと思うが、真っ白な大きなお皿に、普段食べないようなお料理(サーモンのマリネだとか野菜のテリーヌだとか、ローストビーフだとか)をよそって、不慣れなナイフとフォークを使ってお嬢様のような気分で食べるのは楽しかった。大好きな姉と隣同士で座り、笑い転げていた。
そしてあの頃はおじいちゃんが生きていた。毎年、彼と来た。時代にそぐわぬ頑固親父な、わたしたちのおじいちゃん。小さなことにちゃぶ台をひっくり返さんばかりの勢いで激怒し、彼にひたすら尽くしているおばあちゃんに感謝の表現ひとつできない、昔気質なおじいちゃん。なのに不思議と孫たちには愛され、慕われた彼。
おじいちゃんに恋人を会わせることができていたら、彼は恋人にどんな言葉をかけたのだろうか。

帝国ホテルの玄関に停まっていたタクシーに乗り込み、運転手に行き先を聞かれたKさんは「吉祥寺まで」と答え、わたしを送り届けた。

2018年2月4日

カサカサとかシワシワとか、恋人の肌に不具合が現れている箇所が最高に愛おしい。もちろん、ツルっとかスベ…など、具合の良い部分も同じように愛おしい。彼の身体は、隅々まで完璧だ。
恋人は、うしろからするのが好きだ。わたしの背中やお尻を見下ろしながら、えいやと挿入する瞬間、とても獣っぽい感覚になるそうだ。それは普段穏やかな彼の意外な一面だと思う。

それにしても、毎回せっせと恋人の夥しい種を体内に拝受しているのに、どうやらそう簡単には妊娠しないものらしい。夏に取り決めた「積極的に自然にエロく」というテーマを掲げ、わたしたちは避妊をしていない。具体的に結婚などの話はしていないが、愛が実ってくれるならそれは喜ばしいことだと思っている。けれどなかなかそうはならず、自分の体質や高齢具合が悲しいが、こればかりは本当に仕方がない。元から生理不順なのであてにならないけれど、いくらなんでも開始が遅れているのでもしやと試した検査薬の小窓に、これでもかというほど濃い色でくっきりと表示された陰性マークの忌々しさ。そしてなぜか、検査薬を試した直後に限って悪気もなくひょっこりと来る生理は、もっと忌々しい。

2018年2月5日

恋人はどんなに疲れていても、キッチンに立つと心が安らぐらしいことがわかってきた。今朝も早く起きてベッドから抜け出し、暖房もつけずに寒いキッチンでわたしにスープのストックを作って、ベッドに戻ると、すっかり冷たくなった足先をわたしの太ももの間に挟んで暖を取っていた。

昨夜も。深夜にへろへろに疲れて仕事から帰るとまず熱いシャワーを浴び、そのあとやはりキッチンへ直行。ビールを飲みながらハムエッグを焼いて、美味しそうに食べた。「夜中なのに朝ごはんみたいなつまみだね」と笑いながら。それからそのままキッチンで丸椅子に腰掛けながら、ふたりでいろいろなことを話した。
互いの仕事のこと、不妊のこと、将来のこと。悲しいことも嬉しいことも、キッチンで話せば何事も穏やかな響きになる。キッチンという場所がこんなに心を安らかにしてくれることを初めて知りました、というお話でした。


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