自由と自己責任

メモに残してあったエッセイみたいなのがあったので、少し編集して載せます。____________________________

歴史の中で革命的なことはいくつかあった。

狩猟採集型の生活から農耕生活に移行したことで食料の安定供給、定住、安定した生活が実現。現代における文明や文化の端緒といえる。
中世に至りまた人は豊かになった。それでも自由なのは当時の貴族くらい。その貴族の生活でさえ現代の一般庶民の生活と比べても大したことはない無いはずだ。現代はかなり豊かな社会だ。
似たようなことをしていく生活、人生、歴史。中世はそんな時代だったと認識している。
職業は固定、身分も固定、爆発的に世が変わることはなく大体今日と同じくらい豊かな明日が来る。子や孫もそうなるはずだ、実際何百年も中世は続いた。自己実現や成り上がりなどほぼあり得ない世界。不条理も不合理も飲み込むしかなく、人々の処世術として宗教はその面目躍如を果たしていたと考える。


その後産業革命で豊かさが爆発、その分人口が増え平均としては豊かさは増えなかった。近代の始まりだ。そして現代、2度の大戦と冷戦を経て世界は少しずつ学びを得ていった。
ww2後、1960、80年代あたりで科学技術とそれを支える資源、リソースは始めはゆっくりと、その後指数関数的に増えた。今度は一人当たりの豊かさが爆発した。生活や教育は豊かになり思想も多様化したし、自身の人生のコントロール可能な部分が増えた。身分の固定もなくなり人はどこまでも豊かに自由になれたが、同時にそれは自己責任の論理や社会不適合、堕落の烙印を人類一人一人に与えた。


世は豊かになり不合理、不条理な部分は少しずつ市場原理により是正されてきた。市場というのは本当によくできたエコシステムで、人類は未だにこれよりも素晴らしい仕組みを見つけることが出来ていない。

人は自由になり、世界は変わった、能力さえあればどこまでもいける世の中に。
そして科学技術の発展もなかなかどうして著しい。20世紀末に科学は簡単に取れる果実を取り尽くしたという分析があるらしいが、実際はまだまだ果実が取れるような気がしている。遺伝子操作、量子暗号とか量子コンピューターみたいな技術、ブロックチェーン、AI、自動運転とか?ITと医療関係は出来ることがたくさんありそうな気がするよね。


現代は、中世のように今日と同じような未来が来ることはない。どこまで社会が変わるのか、その可塑性が予想できない世の中になった。
今までの常識の通用しない世界だ、できる人間とできない人間、富めるものと貧するもの、新自由主義のこの世界は今までとは比べようもなく二極化の起こる世界だと考えている。これからの30年や50年でまた世界は変わるのではないか。SF映画みたいな世界が実現していそうで少しワクワクしますね。

みんなで平等に貧しく、みんなが同じくらいの豊かさや社会的地位にあると感じられる世界はもう終わった。仕事や恋愛などはより市場原理が働くようになり、需要があるものや優れた人により一極化すると思われる。

思ったのだが、歴史を見ても人類の多くは不合理不条理に晒されてきた。人類が生きた時間のほとんどの期間において、人間が自身の人生の主導権を持つことが出来たことはない。『宇宙兄弟』に「人生はコントロールがきく」、というセリフがありぼくはこの言葉がとても好きなのだが、過去の時代ほとんどにおいてそんな期間はなかったはずだ。

きっと人生は辛いはずなのにそれでも人は子を産む、なぜなんだろうか。辛い人生を子に味あわせてもいいのか、それでも圧倒的に少ない幸せの部分を我が子に感じさせるためだけに産むのか?それとも自分の物語や生きた証を残せれば満足で、子が多少辛い目にあっても構わないのか。今よりもっと貧しい世界でも人は子を生んできた。なぜなのか、少しだけ疑問に思う。まあそんな風に考えた個体は子を産むと言う選択を取らず絶滅し、より自己複製の本能が強い個体のみが残っただけなんだろうけど。

さていま現在。誰でも自由になれる、自己実現ができる、自分らしく生きれる社会。人類史上まれにみるこの思想、価値観は間違いなく豊かで素晴らしく尊いはずなのに、同時に人びとを二分する。二極化した社会は不安定化する、今後世界はどうなるのかな、少し楽しみだ。
今の若者、これから生まれる子や孫の人たち、彼らは恐らく人類史上最も過激に変化する世界の当事者になるのではないか、そんな風に大袈裟に、馬鹿げているかもしれない考え方をする。

自由な機会、時間、リソース、所属できるコミュニティ、友人や親友。何だって選べるし選択肢は無限だけど誰でもその可能性に気づいて認識してアクセスできる訳じゃ無い。人類はどこまでも自由になり、そしてそれによって不安という目眩を起こした。自由になりすぎると人は不安になる。


誰だって幸せになりたい、誰だって他人を傷つけたり迷惑を掛けたい訳はない、うまくいくのならうまくいった人生を歩んでいきたいに決まっている。なんで世の中はこんなにめんどくさくて、一見すると多くの人が幸せじゃないんだろうか。

まあでもそうか。

人生をゲームに例えるなら、なんの障害もなく進んでいくだけでは楽しくない。

人生には大小の困難な局面がある。人によっては日々を送ること自体が難しかったりする、小さい頃の学校とかは特にそうかもしれない。それは仕方ないとして、困難は乗り越えるとポジティブな体験へと変換され、その人の自信になったりする。乗り越えられた困難は良い体験となる。

この現象を理解するポイントは、逆境はすでに過去のものになっているということだ。そうでなければ逆境に翻弄されて問題ばかりの日々だったり楽しくない人生になるし、最悪命を落とす以外の道はない。逆境を経てもその人間が生きていると言うことは、うまくやったかは分からないが困難を乗り越えたということだと考えることができる。

つまり、もし逆境や困難は人生の幸福度を上げるというのであれば、それは一種のトートロジーだ。困難が大きいほどそれを乗り越えた時の幸福度も大きいなら、幸福は理想だけ詰め込んだ人生のポートフォリオの中には無いのかもしれない。
理想のみ詰め込んだ何も困難のない人生がいいとは思うけれど、そんなものは最初から存在しない。なぜなら、言ってしまえば困難の後にしか幸せはないから。

幸福な人生を目指して努力して問題にぶちあたり、トライアンドエラーを繰り返している時が一番幸福なのかもしれない。

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