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創作メモ:『予想を裏切る』のではなく『無意識の期待を叶える』べし。

 こういうこと書いてる暇があったら小説を書くべきなんだが。
 さてせっかくしばらくぶりにNoteで書く気力が湧いてきたのだから前置きはこのへんに本題に入ろう。

 予想を裏切る、についてだ。

予想を裏切っても期待を裏切ってはいけない。

 世の作品の謳い文句には「予想を裏切る展開!」や「思いもつかなかった結末!」「あなたはラスト数ページに驚愕する」というセンセーショナルなものがある。つまり予想がつかない「未知」が新しいものであると宣伝することでお客様に商品を手にとって貰おうとする戦略だ。

 最初の疑問提起だ。『予想を裏切る』ことは面白いのだろうか?
 結論から言おう。だ。読者の予想を裏切っても読者は喜ばない。人は自分の予想を裏切られると嫌なものである。

 そもそも『予想を裏切る』という言葉に語弊がある。読者の誰もがまったく望まない裏切り方をするのはエンターテイメントとして美しくないし、需要がないし、誰も幸せにならない。自分の期待通りのものが出てこないと人は何であれ不愉快になる。読者に対して天の邪鬼になるだけで作品が面白くなるなら、世の中にはもっと捻くれた名作が溢れているはずだ。
 「過去に前例のなかったもの」も大概同じだ。「やってみたけど面白くないからやらなかったもの」であることが大半で、既存の作品を逆張りしただけで斬新で面白い作品になるわけがない。ときには既存の要素を上手く噛み砕いて新たな境地を見出した作品もあるがこれはまた別の時に話そう。

 予想を裏切るとは『読者の想像を否定する』のではなく『読者の想像以上のものを描く』のである。
 実のところ『自分が明確にこれを欲している』と言語化できている人は限られていて、何が欲しいかわかってない人のほうが殆どだ。私自身も自分の欲求を全部言語化できているかと問われたら多分まだできていない。
 今まで特段意識してなかったはずなのに、他者によって【無意識下で本当に欲しかったもの】を与えられたり指摘されたりすると「これが欲しかった! どうして気づかなかったのだろう」と自覚する。

 『無意識の期待や望みを叶える』と、不思議なことに『予想を裏切った面白さ』が生まれてしまうのである。指摘されるまで心の中に無かった欲求を叶えさせられてしまうのだから衝撃と感動は計り知れないだろう。

無意識のうちに『裏切られる』ことを期待させるようにしてしまえ。


 闇堕ちを例えにあげよう。
 すなわち「善の側にあったキャラクターがとある変化を与えられたことに寄って悪の側に堕ちる」という展開のことを言う。
 当然ながらほとんどの場合でバッドな展開であるし、王道の物語は常に右肩上がりでなければならないという物語の通説とは真逆を行く。だけど長年少なからずの愛好家やファンも増えて、ついには一つの王道のジャンルとして定着するほどになってしまった。マイナスのアクションなのになぜか。

 単純な話だ。『この子は悪に堕ちるのだろうな』という読者の予想を叶えて、そのとおりに実現させている。
 するとあら不思議、本来なら望まれないはずのバッドな展開でも読者には受け入れられるのである。前振りされると読者はそうなることを望むのである。

 つまり唐突はだめだ。導線をしっかりと導いて「こうなるだろう」という期待を読者に想起させるのが必要だ。「こうなるだろう」は読者をその作品に定着させるし、結末を見たい気持ちは欲求となって物語の虜にされる。

 そこから先は作者のセンス次第だ。見たいものを見せる作者と読者の連携関係が生まれればみんなが幸せハッピーだ。かといっていつも同じ展開をしては読者に飽きられてしまうので、そこを斬新に構成して新しくも心の中で求めていたものを書けばいい。

 改めて言う。予想は裏切ってもいいが期待を裏切ってはいけない。

 一縷の望みを心の片隅に抱かせる程度にキープしつつ『望み通り』の「ほらダメだったー!」という絶望を与えるのもいい。
 たとえば「悪堕ちしたかー。でもきっと物語を経て元に戻って再び仲間になるんだろう」とか「きっとこの敵対してしまったキャラとは紆余曲折を経て和解して仲間になって絆を紡いでいくんだろう」という読者を裏切って、仲間には戻らないし、死に別れる最悪の結末を与えてあげたい。
 いっそのこと、主人公の手でその人物を殺さなければならない残酷な運命を与えてやってもいい!! これも予想を裏切るようではあるが世に出ている作品群にある展開だ。決して突拍子も無いわけじゃないしむしろ王道だ。デビルマン的なものだがね。そういうダークヒーロー的な禊の展開大好きだ。君も好きだろう? 私は好きだ。

「薄幸の美少女だ! いい子だから幸せになってほしいけど不幸になりそうだな」
「主人公と仲良くなった! 互いが互いの拠り所になってるけど裏切られそうだなぁ!」
「運命が牙を剥きやがった! そうなると思ったんだよなぁ!」
「主人公が彼女を殺さなければならなくなった! 予想通りだ!」

 そうやって「予想と期待通り」に悲劇の結末を迎えたら、そこで物語の読み手は共感を得て楽しくなるのである。エクスタシーだ。
 どうしてもダメそうだったけれどデウス・エクス・マキナで助かりました、ってのは逆にそっちのほうが「裏切り」になるのである。だから極力控えよう。
 逆に中途半端に現実っぽく「あっけなかったりがっかりするような肩透かし」を行うのは、意図的でなければエンターテイメントとして三流のお仕事だ。意図的にやれるならば超一流であるけれど、物語という世界ならばもっとどうしようもなくこじらせてしまったほうがいい。中途半端が一番良くないし、そんなクソみたいな展開は現実世界だけで十分だ。リアリティの裏付けのために現実を模倣するのは本末転倒だ。

 まぁだからといって悲劇至上主義ってわけではないし、要はバッドエンドであれハッピーエンドであれ実は「無意識で望むものを見せてくれることに快楽を覚える」という共通項があるのだと思うと提唱したい。この「無意識に望むもの」には個人差があるからこそ人の好みは千差万別だし、万人に愛される無色透明の面白さってのは多分存在しないんじゃないかなぁとは思っている。

 そして大事なことも付け加えておこう。如何なる物語も「そうなる運命を受け入れられてこそ心に響く」のである。

『オイディプス王』から読み解く願望どおりの絶望悲劇。

 古典のうちで特に有名なバッドエンドは古代ギリシャ三大悲劇詩人の一人、ソフォクレスによる『オイディプス王』だろう。大まかなあらすじはこうだ。

 古代ギリシャの都テーバイでは蔓延する疫病と災厄で人々は苦しんでいた。デルポイの神託は「先王ライオスを殺した犯人を追放しなければならない」と告げたため、主人公オイディプス王は犯人探しを始める。
 しかしその真相は、オイディプスが過去に殺した男こそが先王ライオスであり、さらにライオス自身も「お前の子がお前を殺し、お前の妻との間に子を成す」という神託を受けていた。ライオスとその妻イオカテスの間に出来た子がオイディプスであり、ライオスは神託の実現を恐れて赤子のオイディプスを捨てていた。
 そして成長したオイディプスはそれを知らないまま成り行きでライオスを殺し、スフィンクス退治の功績からテーバイの王となり、その后イオカテスを実母と知らないまま結婚し子をもうけてしまっていた。「父殺しと母との姦淫」という神託が実現を知ったオイディプスは絶望し、自らの目を抉り取る。彼は神託どおりにテーバイから追放された。

  まさしく人類史に残る最高の悲劇であり、数千年経っても色褪せぬサスペンスでバッドエンドだ。オイディプス王に降りかかる運命の悪辣さも悲惨だ。
 人が一つの結末や運命に向かって突き進む姿は美しいし魅惑的だ。運命に抗うであってもいいし運命に逆らえなくてもいい。たとえ先に向かう結末が最悪のバッドエンドでも、その過程を読むことは最高の娯楽となり得る。人はその時、最悪の展開を心の奥底で求めるようになってしまうのだ。

 もし「読者の予想を裏切った」場合?
 オイディプス王がライオス殺しの犯人を探したが見つからずテーバイは滅びてしまった?
 ライオス殺しの犯人がオイディプスではなく赤の他人の別人で、追放してテーバイは災厄から逃れてハッピーエンド?

 つまらん! 物語に盛り上がりもないし、単純に経過を記しただけの記録になってしまう。そこにエンターテイメントはありゃしない。何度も言うが期待を裏切っちゃあいけない。躊躇ってもいけない。

 絶望の物語を望むなら、期待通りに主人公をどこまでも苦しめなければならない。読者の心の片隅で想像した主人公の運命の姿を掘り起こして、望み通りに顕現させるのである。

 ただし勘違いしちゃいけないのは、主人公をひたすら苦しめればいいわけではない。匙加減は重要だし過ぎたるは及ばざるが如し。
 読者に合理性と納得を与えてやるのだ。合理性があってこそ予想ができるし、期待した内容だからこそ納得できる。

 『オイディプス王』で合理性と納得の役割を与えているのは『デルポイの神託』そのものだ。デルポイにあるアポロン神殿でアポロン神から神託を受ける、これは古代ギリシャで特に重要で、その内容次第で人の運命が容易く決まってしまうようなものだと理解してもらいたい。『300』で有名なテルモピュライの戦いのスパルタ王レオニダス一世も「国が滅ぶか王が死ぬか」と神託を受けて死ぬまで戦うことを選んだりしたのが有名か。

 神託はこの先に起きる運命を示している道標であり、ある意味で作者によるネタバレだ。そのパーツだけではまさかそんなことが……と荒唐無稽に疑わせつつも、読者に期待と予想をさせる効果を持たせているのである。物語が進んで真実が明らかになると神託というネタバレそのとおりの内容になったことに感銘を受けてしまう。

 予想が叶って期待通りになったことに読者は感動を覚えるのだ!
 たとえその結末がバッドであろうとハッピーであろうと、読者は自分の想像していなかったはずの、想像通りの物語が紡がれたのを見ると心に安心を抱くのである。
 

 おそらくオイディプス王はその技法を見事に体現した最古の物語かもしれないし、紛れもなく絶望の物語であるのに、歴史に残る名作として語り継がれている理由であると私は思っている。

期待に応えるエンターテイナーたれ。

 前振りされると無意識のうちに読者は先の展開やエンドを想像してしまう。それを叶えてあげると不思議なことに気持ちよくなってしまう。想像が期待通りになって嬉しくないはずがないからだ。だから王道は愛される。

 逆に読者が気持ちよくならないのは、おそらく前振りの仕方を誤ったからである。作者と読者との作品を通じての対話が成立してこその期待通りの成就であって、そこで行き違いがあったらハッピーエンドだろうとバッドエンドだろうと気持ちよくない。
 かといって流行にすぐ飛びつくことが読者との相互意思疎通になるわけでは断じて否だ。逆に流行を否定しても同じく読者との相互意思疎通にはならない。ミーハーでも天の邪鬼でもダメだ。読者に誤解させない前振りをしてみよう。

 読者が何に対して気持ちよくなるのか、どう書いたら共感し期待してもらえるのか。
 いろんなものを見て聞いて学んで知ってインプットを深めていくのだが、まずは『自分自身が何が好きなのか』を深めていくのがいいかもしれない。自分の好きを言語化できないのにどうして他人に前振りができようか、他人に期待を抱かせることができるのか。それを探求しつつ「あなたってこういうのが好きでしょ? ならくれてやる!」と期待に応えていけばいいと思う。ネタが無くなったらインプットを増やしていくのだ。

 ただし人類全員が前振りを理解できるとは限らない。四六時中残念な裏読みばかりして難癖をつけるのを生業にするかわいそうな人もいる。そういう人に対しては多様性の一つとして捨て置こう。万人に愛される無色透明の作品など存在しないし自分の作風を愛してくれるファンを大切にしよう。時間は有限だ。

 まだまだ書きたいこともあるが一旦ここまでにしよう。読んでくれてありがとうございます。共感してくれたならサポートしてもらえると嬉しい限りです。
 また会おう。

私は金の力で動く。