宇崎ちゃんも作者も最初から変わってなかったし悪くもなかったのに、手の平を返す暴力的な「批判」の人々(献血ポスター関連)

 この記事の続きを書くつもりはなかったが、この記事を書いた意味が結実したので短く書いておこう。長く語るつもりもないので次のまとめを見てほしい。

 あれだけ第一弾のポスターを叩いていた人たちがこの手のひら返しである。そしてさも「我々の批判がいい方向になったんだ」と言い出しているのが実に、哀れに感じてしまう。

 彼らの言う批判とは「乳袋」だとか「グッズ目当ての献血は売血」だとか「献血反対運動」だとか、暴言であり恐喝であり、暴力であった。「批判があったから変わった」と言うのであればそれは暴力の肯定になる。非常に危険で無法な考え方である。

 第一弾でも第二弾でも「描かれてる女の子は同じ」であり、「献血を行えば作品関連のクリアファイルなどのグッズがもらえることは同じ」だ。違う点があるとすれば「作者が阪神淡路大震災の被災者だから赤十字に貢献したかった」という情報が追加されたことと「漫画形式になったこと」だ。
 第一弾の批判者はそれらを「我々の批判の成果」と言っているが、よく考えてもらいたい。

 作者は第一弾ポスターを描いていた時点でも阪神淡路大震災の被災者だったのだ。

 阪神淡路大震災は1995年1月17日で、宇崎ちゃんポスター第一弾が批判され始めた時期は2019年10月頃。宇崎ちゃんポスター第二弾が出たのが2020年2月頭。
 それなのに第一弾のポスターを批判した人々は、第二弾ポスターを称賛する。作者の「震災被害者」という付随された新情報を見て、自己保身のために叩かないことにしたような、浅ましい手のひら返しにしか思えないのだ。
 どちらにも批判者が「乳袋」と揶揄した宇崎ちゃんが出ていて、彼女自身も作者も大きな違いはないのに。

「相手の背景を知らなかった」を暴力の肯定の言い訳にしてはならない。

 それを認めてしまえば、相手の口を封じて全ての暴力や無法を肯定できてしまう。そこから先は平和や愛とは無縁の最悪が待っている。私はそのようなものを否定する。


「漫画形式」になったのは改善であったと思う。ストーリー性が生まれるし、本来が漫画作品だからしっくり来る。個人的にも第一弾ポスターより第二弾ポスターが好きだ。

 だが、それを生み出したのは作者だ。
 第一弾ポスターを描いた後の暴言を受けても、クオリティ向上を続けて生み出した作者自身の実力である。

 暴力や暴言は一切の貢献をしていない。

 「批判」した人間は自身の愚行を認めず、必要な行為であったと主張しようとする。自身の行為は正しかったと裏付けしようとする。

 作者の手柄を横取りしようとしてる、そのようにしか見えないのにね。

 まるで例えるなら「俺が手を出してるから喧嘩は収まるし夫婦円満なんだ」と主張する虐待DV夫のようなものに思えるのだ。
 そのような行為は、許せない以前に、醜悪で哀れに感じるのである。


 さて、こんな文章に時間をかけてもしょうがない。哀れな人への指摘よりも自身の人生をより豊かにしなければ。
 締めくくりの文章は4〜5ヶ月前に宣言した内容と同じものにしよう。

 宇崎ちゃんとその作者とこの絵を採用した日本赤十字社は何ら間違っていないと思うし、人命を救うための献血呼びかけという大事な仕事を行っている。私は彼らの行動を尊重する。


 また会おう。

私は金の力で動く。