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マナーもタブーも、ない

オンラインサロン ナットク (1,000円/月)
https://yoor.jp/door/terakoya_nattoku
にて以前掲載した文章を。


日常においてもそれ以外の世界においても、「マナー」や「タブー」という名の同調圧力がはびこっているように感じます。

(主にマナー) 〜を言わなければならない、〜をやらなければならない
(主にタブー) 〜を言ってはいけない、〜をやってはいけない、

という、言動についての非明文化された慣習による制限です。
(反対の概念は、宗教や法律や契約書等で明文化された制限かと思います。)

私は、どちらかというと知らずにマナーやタブーをおかしてしまう側です。
言わなければいけない場面で言わないらしいし、やらなければならない場面でやらないらしいし、言ってはいけない場面で言ってはいけないことを言ってしまうらしいし、やってはいけない場面でやってはいけないことをやってしまうらしいです。...

そして、これを(なぜか怒りながら)指摘されるたびに、「どうしてその言動はマナー/タブーなのか?いつからマナー/タブーになったのか?」と考えます。
考えても踏み台となる材料がないので、とりあえず目の前で(なぜか怒りながら)指摘した人に、質問してみます。
すると、大抵の場合はそれらしい説明をするのですが、大体においては説明に隙(といってもガバガバな)があり、その隙の部分を埋めるために更なる質問を重ねると、この辺でその人の怒りがさらにきつくなるという現象が起きます。...
怒っても隙は埋まらないので、「ああ、説明できないマナー/タブーでしかない、つまり実際のところはマナー/タブーではないのだな。」という結論にいたり、その場は過ぎていきます。

こういった場面を経て、自己が持つマナー/タブーリストは増えていきます。
多くの人も、質問をしたり理解しようとしたりするかはともかくとして、生きる時間が長くなるにつれて自身の持つマナー/タブーリストは増えていくものと推察されます。
ここで注意したいところは、「マナー/タブーリストは増えていくが、それらのほとんど(もしくはすべて)は説明がつかないため実際にはマナー/タブーではない」という上の結論です。

マナーもタブーも、それぞれの内面の中で大切にしているもの(言い方を変えれば執着)なので、個々人に依存するものであって、万人に対して大切さが同程度であるかどうかは全く確かではないということです。

私はそのように思っているので、相手にマナーやタブーを意識するよう要求することがあまりありません。
(明文化された制限については、自分にも相手にも要求します。念のため。)
結果として私には何を言っても大丈夫そうだと安心される方が多いようです。

私にとっては、明文化されていないにもかかわらず自身のマナーやタブーを相手に押し付けることなど原理的に不可能なことなのですが、そう思っていることが私の一つの力だということに、最近気づきました。

「こんなことを言ったら/やったら変かな?失礼かな?人としてクソかな?」
みたいなことは、少なくともこのサロン内ではあまり気にせずどうぞリラックスして言ってみて/やってみてください。

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