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【読書記録】『舞踏会へ向かう三人の農夫』リチャード・パワーズ 

THREE FARMERS ON THEIR WAY TO A DANCE by Richard Powers
『舞踏会へ向かう三人の農夫』リチャード・パワーズ

写真や絵画を見てあーだこーだと妄想するのが好きな人、メタ小説っぽい作品が好きな人にとてもおすすめです。

デトロイト美術館で展示されていた『舞踏会へ向かう三人の農夫』という名の写真のことが忘れられない語り手の「私」。農夫のひとりが自分に似ているような気がしてならない「私」の前に現れたのは、オフィスの清掃係であるヨーロッパからの移民の老女だった。20世紀を生き抜いてきた彼女からこの写真にまつわる話を聞くうちに、この世紀の人類に起きた不条理な出来事、有名無名の人びとの生きざま、そして新しい技術であった複製芸術の意味について考えるようになる。
一方、時は遡って大戦勃発前夜の1914年の5月のある日、プロイセンのぬかるんだ田舎道を盛装した3人の「ドイツ人」青年が五月祭の会場に向かって歩いている。農家の息子とその義兄弟たちは、自転車に乗った写真屋に声をかけられ、当時はまだ珍しかった野外写真なるものを撮ってもらう。変わり者らしい写真屋との会話。遠くに響くブラスバンドの音楽。ここはドイツとオランダの国境。彼らが向かっているのは、ほんとうに「舞踏会」なのか。
さらに舞台は変わって80年代のボストン。技術雑誌の編集者ピーター・メイズは上司や同僚にいじられてばかりの若手だ。メイズはオフィスの窓から見えたパレードの群集のなかに、レトロな格好をした赤毛の女に目が釘付けになる。彼女にどうしても会いたいと願うメイズに、同僚たちは妙に協力的だ。偶然が偶然を呼ぶようにしてさまざまな手がかりを得たすえ、彼は自分の祖先についての驚くべき事実を知ることになる。

さて、異なる次元で展開する『舞踏会へ向かう三人の農夫』(以下、『三人の農夫』)の3つの物語世界はどこでどうつながっているのか?

少しやり過ぎ感もあるうんちくやジョークの乱発にも負けず読み進めると、文化・芸術論、写真論、戦争論、そして物語論を織り込みながら全体の構造とテーマが徐々に姿を現し、これらが連動していることがわかってくる。連動どころか、このテーマの理解にはこの構造が必然とさえ思わせられる。「戦争の悲惨」「記憶」「生の無条件な尊さ」という言葉はけっして、思考停止の脳みそに栄養を与える陳腐な決まり文句に堕してはならない。戦争とは、舞踏会の顔をして、知らない間にわたしたちの視界の外に存在し延長しているのだ。
人間が自作自演するこのとんでもない愚行や哀しみを表わすためには、ストーリーやキャラクターの陳列に終わらない、読者の胸をえぐるような仕掛けがいるのかもしれない。
(以下、いわゆるネタバレを少々含みますが、この作品の場合はあまり関係ないかもしれません)

章立てでランダムに登場する3つの物語世界のうち、2つは同時並行的に進んでいるかのように、そして残りのひとつは一見『三人の農夫』の写真にまつわる話のように読める。
しかし、徐々にわかってくるのだが、この作品は全体が入れ子構造になっていて、「語り」のレベルは三層構造になっている。作者/読者の視点を加えれば四層構造だ。つまり、

レベル0:『三人の農夫』の現実の作者リチャード・パワーズ/読者

1:語り手は「私」(限りなく作者パワーズに近い)。『三人の農夫』という小説中の主人公。デトロイトで見た三人の農夫の写真に強く惹かれ、会社の清掃係であるシュレックさんとの出会いによってこの写真の中に様々なメッセージを読み取っていく。彼(≒作者)の文化・芸術論、写真論、戦争論が展開される。
↓ 
2:(1)の「私」が作者。三人称多視点(そのときによりアドルフ、フーベルト、ペーター、ヴィース、そのほか登場人物)による、写真のなかの三人の農夫の物語。20世紀初頭。
↓ 
3:(2)に登場するペーター・フーベルトゥスの想像の産物である、三人称単視点の物語。主人公はピーター・メイズという現代アメリカ人青年。

もちろんこの多重構造は明示されない。「私」がおもむろに「農夫の物語を考えてみた」と語りだすわけではないのだ。読むうちにいくつかのヒントが見つかる。たとえば、メイズの物語のご都合主義的展開、農夫の子孫にかんする記述の微妙な違いなど。そして農夫の子孫であるペーター・フーベルトゥスが膨らませる妄想の世界や、老掃除婦の話に触発された「私」が改めて農夫たちの写真に向き合う場面などが語られるころに、はじめて全体の構造が見えてくる。だから、3つの物語世界を同じ階層にあるものとして読み続けていると、整合性が見つからないと勘違いをし、混乱するかもしれない(それはわたし)。伏線の回収というお手軽な喜びを読者に与えない作り込みなのである。

「私」に物語を創るきっかけをくれた老掃除婦は、一葉の写真を心の慰めに、20世紀がもたらした悲惨をすべてその身に受けながらひとりで生き抜いてきた。新世界に移民し、子孫も残さず歴史のなかに埋もれ消滅していく運命にある彼女が、たしかに生きていたということの証明を残そうと、「私」は農夫たちの物語を創ったといえる。そしてその物語のなかの哀しみと無念が別の物語を生む。記憶は想像され創造される。イアン・マキューアンの『贖罪』は、慚愧の思いから新しい記憶を創造し続ける小説家の物語だが、『三人の農夫』も同種のメタ小説(小説についての小説)だと思う。

最終章は、入れ子構造のもっとも内側(物語内の物語内の物語)にある、つまりフィクション濃度が最高の「現代青年メイズの物語」。面白いのは、入れ子構造の内側へいくほど、つまり妄想度が高い物語ほど、逆説的に現実により近い、平凡で卑近な日常の光景のなかで展開することだ。それでいて、本作全体を貫く思いのようなものがまさにこのレベルにおいて結晶化し先鋭化している。その思いとは、戦争の不条理を改めて訴え、若くして死んでいった兵士たちと市井の犠牲者たちの生と声を回復しようとする試みではないだろうか。そしてそれは1枚の写真を多視点から見つめることで立体的な姿を現す。複製芸術である写真の機能が、この展開に大きく貢献している。

冒頭に登場した大戦前夜のプロイセンの農夫の写真撮影の情景と、80年代のメイズがオフィスに戻った場面から成る最後の2章は象徴的だ。当時の最新技術の実践者である写真屋が田舎のぬかるみ道を自転車で去っていく。彼を見送る若者たちを襲う破滅の幻覚や終末の予感。農夫たちは不安を抱えながらも、舞踏会を信じ、技術の発展を信じ、そして知らない間に戦争に向かう。自動車王フォードが絡んでいた曽祖父の遺産問題に決着をつけたメイズは、写真をめぐる冒険の末に、自分が手を差し伸べるべき相手が誰なのかを知るのだった。

写真、ピアノロール、そして自動車工場など、当時発展を遂げていた機械複製技術は、時空を遠く離れた人びとが芸術や技術を共有するという「同時性」をもたらした。そして『三人の農夫』においては、作り手と対象と利用者の共働である「同時性」は、各層が同じ重みを持ち互いに作用しあう物語の重層構造とも通じる。文字で表された本という平面のなかに、複雑で無限の立体像が結ばれている。

おまけ
本作品の中にもしばしば登場するヴァルター・ベンヤミンの『写真小史』や『複製技術時代の芸術』もおすすめです。

#richardpowers #舞踏会へ向かう三人の農夫 #リチャードパワーズ #アメリカ小説


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