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ハートで闘え!!

千葉県警・松戸市が戸定梨香とコラボしたことで炎上している。これと似た炎上騒ぎは以前にもあった。日本赤十字社の「宇崎ちゃん」ポスターや美濃加茂市の「のうりん!」ポスターが代表例だ。こうして見ると、パブリックとプライベートとのコラボレーション企画に火が付きやすい、そして火が燃え広がりやすいという印象を受ける。

この背景には、官と民の相反する性格が作用していると思われる。民間人による文芸作品は特定の嗜好を持つ人を対象にすることが多い。一方で、公的機関の情報は多様な属性の人々に向けたものである。そのため、パブリックセクターが発信する情報には在野の表現と比較して高い倫理基準が求められる。

両者の調整を図っている分かりやすい例がテレビだ。テレビは民間人による表現発信の場でありながら、その独占性や伝達力の高さゆえ公的性質を持ち合わせている。そこで「放送基準」が定められ、BPOよる監視体制が整備されている。

しかし、行政の民間コラボにおいてはそうした基準が形成されていない。これは官民コラボが黎明期にあるからだろう。ある種の「落としどころ」である倫理基準が無いと、「不快だ」と「気にするな」の応酬が延々と続くこととなる。実際、戸定梨香の一件に限らず、これまでの官民コラボをめぐる議論はかなり紛糾しており、炎上のたびに同じ水掛け論が表出しているのが現状だ。

官民コラボの倫理基準が形成されるまでは、おそらく同じような議論が繰り返されるだろう。今後コラボ例が増えていけば、「これくらいだったら炎上しないだろう」というラインが自ずと共有されていく。それまでは感情論同士を大いにぶつけ合えば良いと思う。ハート同士のぶつかり合いこそが倫理の源である。

(個人的には、胸部や臀部の大きさや動きを過度に強調するような表現でなければセーフかな、という気がしている。単に胸部や臀部が大きめであったり揺れが描写されているくらいでは、私は不快に思わないし、不快に思う人は少ないのではないだろうか。確かに子供向けのアニメでは胸の動きは固定されていることも多いが、行政のコラボに子供用アニメと同程度の倫理基準を求めるのは流石にやりすぎだ。そもそも、身体を表現する以上必ず何らかのエロは付着するのだから、完全にエロを排斥するのは不可能だし、「あからさまなエロ」が無ければ許容すべきではないか。そう考えると戸定梨香は槍玉に挙げられるほどの問題ではないと思う。もちろんこれは私のお気持ちに過ぎないが。)

ただ、それはそれとして、今回のコラボに批判的な人達の議論にはひっかかるところがある。例えば、全フェ連は「性犯罪を誘発する」「ジェンダーバイアスを強化する」ことを規制の根拠として挙げている。コラボに批判的な人達の書き込みを見ると、こうした議論に賛同する風潮はかなり強い。しかし、これらを基礎づける証拠は何一つ存在しない。むしろ、表現の多様化に伴って性犯罪数やジェンダーバイアスは逓減している(以下の記事が参考になる)。

性表現を暴力表現に言い換えれば、その荒唐無稽さは明らかとなる。「暴力表現は犯罪を誘発する」「暴力表現は犯罪に対する肯定的な価値観を強化する」。こういった偏見もといウソは、日本が長年かけてオタク差別を解消していく過程で克服してきたはずだ。(現在R18 指定のようなゾーニングがされているのは、意図せず暴力表現を目にした子供の精神的動揺を防ぐためであり、犯罪や固定観念を妨げるためではない。)しかし、フェミニズムという先進的な思想の文脈でこうした「古い議論」が打ち出されると、それがアップデートされた思想であるかのように受け止められてしまう。本当にアップデートされていないのはどちらの方か、慎重に吟味する必要がある。

法的根拠が無いのに表現の規制を主張する背景には、その表現に対する嫌悪感があるはずだ。その内実が「嫌いなタイプの異性が喜んでそうでキモい」なのか「自分が性的に対象化されているようで嫌だ」なのか「嫌いなタイプの表現が行政とコラボしているのが気に入らない」なのか分からないが、いずれにせよ不快感が根本にあることは否定できないだろう。

私はその不快感を捨てろと言いたいのではない。むしろその感情を正確に捉えて言語化していく必要がある。なぜなら、不快感を不快感として表明し合い、相対化し合う営みこそが倫理を形成していくからだ。ところが、自分の(あるいは自分が代弁する)不快感を「性犯罪を誘発する」「ジェンダーバイアスを強化する」といったウソで覆い隠して、「絶対的に正しいもの」として扱うような主張が散見される。これはとても誠実な態度とはいえない。小手先の詭弁はハートの所在を見失わせる。

一方で、表現を擁護する側の論調にも思うところがある。例えば、フェミニズム議連の主張に対して、「表現の自由」なのだから許されるべきだと反論する動きがある。しかし、ここで「表現の自由」という法的概念を持ち出すのは無意味である。これは法律ではなく倫理の問題だからだ。こうした反論の仕方は、「表現の自由」の範囲内であれば倫理基準を無視してよいという姿勢につながる。「表現の自由戦士」といった揶揄は、倫理を軽視する姿勢を逆手に取ったものである。問題になっているのは倫理であり、倫理とは感情論の集合体であることを忘れてはならない。

表現を擁護する側がすべきことは、個人の不快感を突飛な理論で絶対化しようとする者や、事実を感情で捻じ曲げようとする者に対して、それは詭弁であると淡々と反論していくことだ。そして、ドロドロとした感情論が議論の中核であることを洗い出したうえで、「あなた方の不快感は本当に表現規制を正当化するほどのものか」と改めて問いかけることだ。

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