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一緒にサッカーできてよかったです。ありがとうございました。おつかれさまです。


自分の中でサッカーは幼少期のいい思い出であると同時に、なぜかあまり鮮明には思い出したくない過去みたいだった。

「みたいだった」なんて他人事かのように語るのは、ほんの最近までそれを認識していなかったから。
サッカーをやっていた頃の自分を思い出そうとするとモヤのようなものがかかる。それを嫌ってか思い出そうとはせず、なんとなく遠ざける。

中学3年でサッカーを辞めてから、気がつけばサッカーは自分からすごく遠いものになっていた。
箱にしまって、押入れの1番奥に置くようなそんなこと。
それを知らず知らずのうちにやっていた。

だけれど、今回のワールドカップを見てそれが大きく変わった。

ドイツに勝って、スペインに勝って、選手たちが見せてくれた景色。

それを見た時、不意に押入れの奥に光が照らされた気がした。

奥の奥に終われたはずの箱はいつの間にか自分の手元にあって、自分の手で開けられるようになっている。

本当に本当に烏滸がましくも、
全ては地続きなんだと感じた。

同い年の子達がたくさんピッチを走り回って、日本チームの偉業に貢献ていた。
ひょっとすると遠い昔、自分が闘ったあの試合も、巡り巡ってこの勝利に、ほんの米粒程度にも貢献しているんじゃないか。
回り回って、あのスペイン戦でのライン際1mmにつながっているんじゃないか。

そう思った時、記憶を取り囲んでいたモヤがスッと晴れた。昔の自分が少しだけ救われた気がした。

だけれど、地続きを感じるということは、
嬉しいことだけじゃなくて、苦しさも共に感じ、責任を負うことだということを、クロアチア戦を見て嫌というほど感じた。

大袈裟だしあまりに自意識過剰だと客観視する自分もいるけど、確かにそう感じた。

今までにないほどに悔しいし、心のやり場がない。
自分があの時諦めたものが、今日の惨敗にノミほどには関わっているんじゃないか。
そう思うと少しだけ胸が締め付けられる。

ひょっとしたら社会の、世界の全ては地続きなのかもしれない。
だけれど、すべてとつながり続けると、この世に起きる全ての幸せ不幸をこの背に受けることになり、とてもじゃないけれどまともでいられない。

シンクロ率のようなものかもしれない。
主人公たちは自分が乗るエヴァンゲリオンとシンクロして、闘う。
シンクロ率が100%に近づくほどに、本来エヴァンゲリオンが受けたはずの痛みも、一緒に感じるようになる。

世界と、ある国と、ある街と、ある会社と、あるチームと、ある家族と、
自分の生活の連続性。

ある対象と、自分の間にある、つながり。
過去から現在、そして未来へつながるその連続性。非連続性。
責任と無責任。

それは他でもない、自分自身も同様。
過去の自分と現在の自分の連続性、非連続性。

すべてはつながっていると考える自分。

しばしば同期をやめるかのごとく、つながりを拒む自分。
押入れの奥の奥にしまわれた固く閉ざされた箱をしまうかのように。


つながっては、断ち切れる。
すべては連続的で非連続的。その間を漂うように生きている。


この2022年ワールドカップをみなさんと戦えてよかった。
すばらしい日本代表チームと、日本のサッカープレイヤーをする皆さんと、応援するサッカーファンの皆さんと、サッカーをしてきた皆さんと、息子さん・娘さんのサッカーを見守ってきた親御さんと、公園でサッカーをすることを許してくれた地域の方々と。ピッチを駆けた過去の自分と。

この10日間一緒にサッカーできてよかったです。
ありがとうございました。おつかれさまです。また会う日まで。

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