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地獄に鏡

人間のなかで生きてゆかなくてはならない人は、それがひとたび自然によって定められ、与えられたものであるかぎり、たとい最悪のもの、哀れむべき笑うものであったとしても、他人の個性をむやみに非難してはならない。人は他人の個性をむしろ、永遠の形而上学的原理によって、それがいまあるようにあらねばならないもの不変のものとして受けとめなくてはいけない。そしてどうしようもないほどぐあいが悪い場面に直面したときには、「こうした変人がいるのも当然のことだ」と考えるべきである。

ショーペンハウアー『孤独と人生』、p176


”地獄とは他人である”と、ある哲学者は言った。
”すべての人間は他人の中に自己を写す鏡を持っている”と、別の哲学者は言った。

どちらも他人という存在について言及した箴言であり、この2つを合わせて考えると、他人に囲まれて暮らす我々はつまり地獄で鏡を覗き込みながら生きている、ということになる。
表現としてやや突飛かもしれないけれど、そういう視点で現実を捉えることは、世界と自分の間にある確かな線を見失わないためにもとても重要なことだと思う。

少なくとも生きている間は、この他人からは逃げることはできない。生活のあらゆる場面で関りを持たなければならないし、且つ可能な限りそれを良好な状態に保たなければ結果的に自分の首を締めることにもなりかねない。

「人は独りでは生きられない」という言葉をよく見聞きする。私はその中にある感謝の強要や傲慢な共同体意識が嫌いなのだけれど(もちろん人に感謝していないわけではない)、事実としてそれは正しい。私の持っているもののほとんどすべては、直接的にも間接的にも他者の存在によって成立しているからだ。

そして同時に、人が思い悩んだり苦しんだりする原因もまた他者の存在によるものである。そのために我々は日々己を偽り演技し、気づかないうちに他人の尺度や視点を自分の中に取り込んで生きている。
ここで忘れてはいけないのが他者も同様に偽り演技し、私(他者)のまなざしを意識して生きざるを得ない状態にあるということだ。つまり生命活動のすべては他者の存在を前提としており、悪い言い方をすれば都合に合わせて騙し合っているということになる。
サルトルが地獄と表現したのも頷ける。どんなに親しい人(家族・友人・恋人)と一緒に居ても、その時の自分が演技をしていないと言い切ることはできないだろう。
それを考慮すると「では他者の介在しない、偽らざる剥き身の自己はあるのだろうか」という疑問が湧いてくるのだけれど、この地獄においてそんなものは現実逃避のための幻のようなものなのかもしれない、と最近思うようになった。諦めているのかもしれない。
あるいは、本能のままに生きる畜生に堕ちるかだ。


次に「自己を写す鏡」としての他者を考える。

これをフラットに解釈すれば、他人の行動や思考、価値観に対する自分の反応を通して自己理解を深める(どう感じたか、善悪の判断等)ことを意味した言葉、と受け取れる。
反応として浮かび上がった感情の動き、ないしは思考のパターンを注視することで自己の目に見えない部分の輪郭を知れるのは、自他における線引きをする上で重要な要素になる。

ただ、この他者を鏡と捉えるプロセスはどうしても元となる自分自身の視座を起点に据えるところから始まるので、それ次第では必ずしも自分を高める結果にはならないかもしれない、という可能性もある。

とはいえ、他者を通して自分の持つ物の見方や考え方を見直すというのは、この「他者は鏡」において最も重要なポイントであるように思う。

私には長いこと自分の思考に固執し、似たような気質の人に同調してしまってやや盲目的になっていた面倒な時期があったのだけれど、他人のそれに触れることで多かれ少なかれ思考のクセのようなものに変化を起こすことができた、と思う。嫌いなタイプの人間の幅が広がったし嫌な目にもたくさん遭ったが、そのおかげで今の生き方に辿り着いたとも言えるのだ。


結局のところ、他者を抜きにした人生というのは残念ながら存在しえない。これからも「わたしとは何か」という問いを抱えながら他者に囲まれてどうにかこうにかヘタクソな演技をしていくしかないのだと思う。
答えに漸進することはあっても、たどり着くことはない(いまのところは)。

そう考えると生きるのはとても疲れる行為なのだけれど、唯一の処方箋と言うべきものは冒頭に引用した言葉の中にある。
つまり寛容さと用心深さである。
「こうした変人がいるのも当然のことだ」には、諦観なのか寛容さなのか判然としない部分はあるものの、地獄の中で用心深く善性を見出そうとする姿勢を持っているようにも思えるのだ。他者の否定は自己の否定と同義であり、地獄でのみっともない潰し合いなんかきっと誰も望まないだろう。

誰かが石を積んだ。だから私も石を置いた。

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