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日本近現代史(戦前)~今もめていることの起源はこれ

 サザンオールスターズの「ピースとハイライト」の中に「教科書は現代史をやる前に時間切れ」って出てきますが、全く同感です。今でもそうらしいですね。教科書に載っているのに授業では「時間切れ」で、中学でも高校でもやらないです。

 まあ、現代史はまだ現在進行形で史実が確定していないからとか、受験にでないとかいろんな理由があるそうですが。しかし、海外では、もっと現代史を教えてるようです。

 日本の教育で根本的にかけているのが、この現代史教育と英語教育だと思います。どちらも海外に比べてレベルが非常に低いと思います。

 これが、政府が、「英語ができないので海外へ頭脳が流出しないだろう」とか「現代史知らないので政治に無関心で現政権に好都合だ」とかもしかして思っていないだろうかとかさえ邪推してしまいます。

 ということで、8年前に私なりに日本の現代史を現在の問題の起源等を探りながら「戦前」「戦後」「未来」という形でまとめたものを紹介します。

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 15世紀中ばから17世紀中ばまで,宗教革命(プロテスタントとカトリック)も一つのきっかけになったといわれる「大航海時代」という西南ヨーロッパ人(主にスペイン・ポルトガル)によるインド・アジア大陸・アメリカ大陸などへの植民地主義的な海外進出が行われました。フィリピンには、1521年にマゼラン率いるスペイン船団がきました。その後、1565年から、スペインは、フィリピンを300年間(1898年まで)も植民地にしました。日本にも1549年、フランシスコ・ザビエルが来て、カトリックの布教を始めます。大名までの改宗し、キリシタン大名と言われました。

 日本では、14世紀前後の北九州から朝鮮半島南部、明国沿岸にかけての東アジアの海上世界は、日本人で構成された「倭寇」が活発化していました。1419年には、朝鮮水軍が対馬に報復し、朝鮮側の勝利(対馬征伐)。

 秀吉の「朝鮮出兵(文禄・慶長の役)」が1592,3と1597,8年です。これは、秀吉が明征服を目的に(信長の野望でもあったそうです)、まず朝鮮を征服しようと企て、なんと14万人の勢力(日本の人口が2,200万人、朝鮮は500万人、明朝は1億5000万人、イベリア帝国(スペイン・ポルトガル)は1050万人の時)で、明と朝鮮軍の連合軍(20万人+20万人)と闘いました。16世紀の世界最大の戦いだそうです。秀吉の死去で、撤退し、その後出兵した諸大名は、弱体化し、出兵しなかった徳川家康が天下を取ります。

 出兵の目的は、当時スペインは、フィリピンの次に、明や日本侵略を狙っていた。それを知った秀吉は、スペインに逆に、共同で明を攻めることを提案しますが拒絶されます。それならば、先に秀吉が明を攻め、スペインから日本を守るという事を考えたそうです。当時、戦国時代の後の天下平定により、たくさんの武士(50万人)が余剰していて、領土という報酬を与えられない状況も解決できるという意図もあったとのことです。明に大量な兵士を送れる船もない秀吉は、朝鮮に渡って、李氏朝鮮に明を攻める協力を申し出ましたが、宗主国を裏切れないと断られ、それならば、まず朝鮮を攻めるという事にしたのだそうです。

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 しかし、韓国側は、この朝鮮出兵が、明攻略の「唐入り」を目指したものではなく、突然攻めてきた「朝鮮侵略」という史実になっており(まあ、当然そう思うでしょう)、現在の韓国の「反日」の原点にもなっています。たとえば、この戦争によって、朝鮮が荒廃したこと、戦功の証明として「はなそぎ」のような行為があったこと。出兵に参加した大名たちによって連れてこられた朝鮮人から様々な技能が伝えられたり、朝鮮人儒学者との学問や書画文芸での交流、そして陶工が大陸式の磁器の製法(有田焼など)、瓦の装飾などを伝えたことで日本の文化に新たな一面を加えたこと(朝鮮のおかげ)等です。

 その後、18世紀半ばから19世紀にかけて、英国を皮切りに「産業革命」が起こりました。植民地からの原料供給もありました。これは、「農業社会から工業社会」への変換期にもなり、人口は爆発的に増加し出しました。1776年がアメリカ独立です。江戸時代は、1603年から1867年です。日本は、200年間の「鎖国」に入ります。

 19世紀初頭から半ばにかけて、アジアのほとんどの国が、19世紀後半には、アフリカ諸国が、欧米の植民地となりました。下図が1989年の植民地化の地図です。東アジアで言うと、日中韓国がまだ独立を保っています。まさに「欧米の世界」「白人の世界」または、「工業国vs農業国」「先進国vs後進国」という状況です。この頃までは、「弱肉強食」という動物界のルールが適用されていたのでしょうね。

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 欧米にとって、最後のターゲットが、まだ植民地化していない「Far East = 極東」の東アジア地域でした。

 当時中国は「清王朝(1644年から1912年)」でした。19世紀の中国は、清の支配が衰え、繁栄が翳った時代大規模な社会動乱、経済停滞、食糧の供給を逼迫させる人口の爆発的増加などに苦しんでいました(18世紀前半には推定2億人だった人口はわずか100年後の19世紀前半にはその2倍、推定4億人を突破したとされる)。1840~1年に、英国が輸入代金の代わりにアヘンを輸出していて、それを阻止しようとして、「アヘン戦争」が起こりました。そして、清朝の衰退に伴い、清に勝利したイギリスは中国に賠償金と香港割譲、上海などの開港を要求、不平等条約を締結。これに米仏も便乗しました。1858年、ロシアに沿海州割譲(ウラジオストック建設)。1860年、英国に九龍半島割譲。

 「華僑」は、端緒期は、対外貿易の発展した8-9世紀の唐代であり、展開期は16世紀の後半の明代に、東南アジア方面への海禁を解除したため、交易のため東南アジア方面へ向かう中国商人が増大しました。大量流出期は、清朝も混乱期に向かう19世紀以降で、アヘン戦争の敗北で南京条約を結んだ中国が開国させられたことによって、中国人労働者の大量流出が本格化します。奴隷貿易の廃止を受けて、苦力(クーリー)と言われる奴隷に近い労働者として中国人が導入され、シンガポール、スズ鉱山のマレー、ゴールフォラッシュで湧く北米、サトウキビ畑の中南米へと世界に輸出されました。1910年代、華僑に何もしてくれない清王朝に不満を持った華僑は、本土で「滅満興漢」を合い言葉に清朝打倒の辛亥革命が発生した時に孫文を支持し、巨額の支援金(華僑醵金)を新生の中華民国に送りました。

 出遅れていたアメリカは、1853年、ペリーを日本に来航させたり、清に進出します。清の敗北と半植民地化という情報は、日本でも衝撃をもって迎えられ、アメリカの脅威も感じ始めます。アヘン戦争以後、東アジアで欧米による帝国主義の波が強まる中で、尊王攘夷運動が起こり、1868年、明治維新が起きます。「文明開化」「富国強兵」の始まりです。

 1860年代半ば以降、フランスやアメリカは、朝鮮半島を支配していた朝鮮王朝に開国を迫っていました。日本も、朝鮮に対して条約締結と開国を迫り、1876年に「日朝修好条規」を結んで朝鮮を開国させました。しかしその一方で、清国も朝鮮への介入を強めていきました。

 ロシアは1891年にシベリア鉄道建設など中国進出を開始し、ロシア南下は日本にとって脅威となりました。1894年、韓国は東学党の乱の鎮圧に失敗し、清と日本に救援を求めます。日本は清に韓国の共同統治を申し出ますが、清が拒絶したので、「日清戦争」が明治維新から26年後の同1894年に勃発します(日本軍約24万人に対して清軍約63万人)。日本は完勝し、講和条約では遼東半島、台湾を割譲しました。朝鮮も独立させます。しかし、すぐ露仏独の「三国干渉」があり、遼東半島を返還します。1895年より「台湾統治」です、当初は、台湾住民の抵抗は強く、日本軍の戦死者は約2000人。日清戦争時の戦死者が1200人ほどだったといいますから、それを超える抵抗を受けたということです。台湾の人は、今は親日ですが、当時は反日だったのですね。

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日本と中国(清)が互いに釣って捕らえようとしている魚(朝鮮)をロシアも狙っている

 帝国主義時代に行われた日清戦争は、清の威信失墜など東アジア情勢を激変させただけでなく、日清の両交戦国と戦争を誘発した朝鮮の三国にも大きな影響を与えました。近代日本は、大規模な対外戦争(陸軍、海軍)をはじめて経験することで「国民国家」に脱皮し、この戦争を転機に経済が飛躍します。日本は、清の賠償金(日本の国家予算の3倍)などを元に、「金本位制」をしき、軍備を拡張し始めます。朝鮮も戦場になりました。1958年(昭和33年)の日清戦争の映画もあります(ちょっと中国の反日映画っぽいですが)。

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 日本もいつの間にか、「欧米の列強」と同じ国家になっていったということですね。現に、当時、欧米世界に日本の戦争の正当性を訴え、その中で「日本は東洋に於ける進歩主義の戦士なり」として、進歩の敵である中国以外の世界中すべてが日本の勝利を望むだろうと言っています。日本は欧米流の文明を取り入れ、近代化を図っているという自負があったのだそうです。

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     ビゴー『1897年の日本』 列強クラブに入る日本だそうです。

 アメリカは、1898年に、フィリピン、グアム、ハワイを領土とし、太平洋を制覇します。

 満洲を勢力下においたロシアが朝鮮半島に持つ利権を手がかりに不凍港を求め、南下政策を取りつつありました。1900年にロシアは清で発生した義和団の乱の混乱収拾のため満洲へ侵攻し、全土を占領下に置き、満洲の植民地化を既定事実化しようとしたため、1902年、利害が一致する英国と「日英同盟」を締結、ついに1904-5年、「日露戦争」勃発。日本の勝利、南満洲鉄道を獲得するなど満洲における権益を得ることとなりました(日露戦争といっても、陸軍は、韓国を渡り、中国本土で決選したので、両国民にすればたまったものではなかったでしょうが)。日露講和に、米国のルーズベルト大統領の力を借りました。そして、日本は、非白人国として唯一列強諸国の仲間入りをし、後には「五大国」の一角をも占めることとなったわけです。そして1910年、「韓国併合」。日露講和によって中国での権益を得ることを期待していたルーズベルトは、日本に拒否され、これ以降反日感情を強くしました。またアメリカの国民の間からも人種差別的な黄禍論が急速に盛り上がり、のちの日米開戦へとつながっていくことになります。

 この日露戦争の日本の勝利は、「白色人種に黄色人種が勝利した」という、世界に大衝撃を与えた事件でした。

 この時、南樺太と千島列島を露から割譲します。戦後、北方領土が問題になっていますが、この四島は、以前から日本の領土だったから、戦争によって拡大した領土ではないので、返却すべきだと言っているわけです。ロシアとしては、太平洋に抜けられる重要な地点として、ロシア人を移住させて実効支配しています。歯舞諸島・色丹島の2島だけならば、聖域となっているオホーツク海への軍事的影響はほぼないので、交渉次第では返還される可能性があるとか言っていましたが、今の現状では可能性はないでしょうね。

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 当時、欧米では「黄禍論」がジャーナリズムに登場しだします。(ヨーロッパの各民族よ、諸君らの神聖な富を守れ)。皆でブッタをやっつけろということです。このころの欧米人の率直な感覚だったのでしょうね。

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 中国では、弱体化した清に対し、1911年には辛亥革命というのが起こります。1912年1月には孫文が臨時大統領となり中華民国が成立することとなるのでした。清は、袁世凱という軍人勢力の実力者を立てて、革命政府に対抗したが、この袁世凱がなんと自分を中華民国の臨時大統領にするという条件で清を裏切り、清朝では皇帝溥儀(ラスト・エンペラー)が退位することなり、その長い歴史に幕を閉じました。これを契機に、1911年には外モンゴルが独立を宣言。1913年にはチベットも独立を宣言します。その後の中国は事実上、分裂状態となり欧米列国の食い物とされていきます。

 1914年、「第一次世界大戦」が勃発します。主な戦場は欧州ですが、植民地まで戦火は広がります。日本もドイツに宣戦布告し、ドイツの拠点の青島を日英軍で攻略します。1919年終戦。中華民国はドイツ権益が中華民国政府の管理下におかれるべきと要求しましたが、日本政府は戦時国際法上の軍事占領として日本軍が管理するべきものとし、日中関係が悪化しだします。1915年、日本は、「対華21ヶ条要求」を出し、日中関係はさらに悪化。

 近代戦による悲惨な「弱肉強食」のための戦争に対する、厭戦感が広がり、1920年、国際連盟が発足しました。日本は、人種差別廃止を提案しましたが、英米など植民地を多く持つ国に阻止され、まだ、世界は、現代の価値観まで到達しませんでした。1921年には、ワシントン軍縮会議が開催されます。

 米国は、日本の台頭を歓迎せず、日英同盟を破棄させるように動き、1923年、日英同盟解消。翌1924年に米国で移民法排日移民法が施行されます(1920年には米国全土で約12万人)。この頃から次第に、日本で反米感情が高まりました。

 アメリカ合衆国は、1920年代にはイギリスに代わって世界最大の工業国としての地位を確立し、第一次世界大戦後の好景気を謳歌していました。しかし1929年、アメリカ経済は生産過剰に陥り、それに先立つ農業不況の慢性化や合理化による雇用抑制と複合して株価が大暴落、ヨーロッパに飛び火して世界恐慌へと発展します。世界恐慌に対する対応として、英仏両国はブロック経済体制を築き、アメリカはニューディール政策を打ち出してこれを乗り越えようとしました。

 しかし、広大な植民地市場や豊富な資源を持たないドイツやイタリアではこのような解決策を取ることはできません。両国の国民は絶望感と被害者意識をつのらせ、ファシズム、ナチズムの運動が勢力を得る下地が形作られます。絶望の中の「カリスマ」待望ですね。日本でも、1923年関東大震災、1930-31年は、昭和恐慌、1930-34年は東北大飢饉が起こります。1936年、1500人の若年軍人が昭和維新を起こそうと「二・二六事件」が起きます。

 実は、米国では、1919年から日本を仮想敵国とする「オレンジ・プラン」が計画されていました。日本でも1923年に、同じように、米国を仮想敵国とする計画が練られ始めました。

 そして、東アジアでは、1931年に関東軍が「満州事変」を起こします。国際連盟により派遣されたリットン調査団は自衛の範囲とは呼びがたいと結論し、1933年、日本は、国際連盟を脱退します。1937年、ルーズベルトは、演説で、日本を「侵略国」と非難します。1938年に米国が日米通商航海条約の廃棄を通告し、日米関係は開国以来の「無条約時代」に突入しました。日本は、大本営政府連絡会議で「対米戦争」を考慮に入れた「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱」が採択されました。

 当時、満州国建国などで国際的に孤立してしてしまっていた日本は、ドイツの勢いに乗ることにします。1940年、ドイツと同じくファシズムに走っていたイタリアとも手を組み、日独伊三国軍事同盟を結びました。しかし、遠いヨーロッパの国の2国と軍事同盟を結んだところで実質的な効果はなく、逆にイギリスを支援するアメリカとの対立を深める原因になってしまいます。

 アメリカは経済制裁を始めます。その頃、石油や鉄の輸入の7割以上をアメリカに依存していた日本は、相当な打撃を受けます。1941年4月に日本はアメリカとワシントンで交渉を開始。

 しかし、その一方で日本の陸軍は石油やゴムなどの資源を求め、ベトナムへ軍を進めサイゴンへ入城します。サイゴンとはアメリカ領のフィリピン、イギリス領のシンガポール、オランダ領のインドネシアなどすべてを攻撃できてしまう場所。これに危機感を募らせたアメリカは日本に対して石油の輸出を全面禁止。アメリカにいる日本人の資産を凍結させるなどの処置にでます。

 そして、同年11月。アメリカ国務長官ハルは最後の提案として日本に中国からの日本軍の撤兵、日独伊の同盟廃棄、中国の満州を満州事変以前の状態に戻すことなどの条件を日本に突きつけました(ルーズベルトは戦争しないと公約していたので、日本側から仕掛けさせたい動機がありました)。しかし、日本としては到底飲める内容ではなく、1941年真珠湾にてアメリカ海軍を攻撃。太平洋戦争勃発。

 つまり、17世紀の「大航海時代」、18世紀の「産業革命」を経て、19世紀半ばからの「欧米の植民地政策」で東アジアでは、国際環境が激変し、19世紀末より、それに対して、「日本」が力をつけてきて、太平洋戦争へと突入してしまったという事になります。根底に自民族が優位であるというような「人種差別意識」があったのだと思います。【2014年1月23日】

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参考文献

 昭和の歴史が池上さん流にすごくわかりやすく書かれています。430ページで730円は安いですね。成田ームンバイ間のフライト中に全部読めました。このころの歴史は知っているようで知らないこともあり、結構モヤモヤ感があったのですが、かなりすっきりしました。【2013年12月1日】

 領土問題、靖国問題などが出てくるたびに、「何でこんなにもめるんだ」と思いますが、櫻井よしこさんは、「ちゃんと歴史を勉強しなさい」と諭します。

 ということで、彼女のネット番組の「言論テレビ」と言うのに会員登録しました。毎週金曜日の夜にライブで放送があります。これで、ちょっと勉強しようと思っています。【2013年8月25日】

 ゴールデン・ウィークは、「昭和史」三昧でした。本とビデオで30時間以上読んだり、観たりしました。昭和史は学校の歴史の時間でじっくり習うべきですが、中学も高校もいつも最後はちゃんと習わず終わってしまいました。よく「日本人は現代史に疎い」と隣国に言われる所以です。
 昭和の時代は、戦争もありましたので、「政治」「イデオロジー」「経済」は激変しました。特に経済は弱かったので、外部環境に左右されましたね。平成の時代もその変化はありますが、テクノロジーの変化のほうが大きいような気がします。【2013年5月5日】

 この手の本はざっと一気におさらいするのにいいですね。日韓併合して第二次世界大戦で日本が敗北するまで35年も日本は韓国を統治していたのですね。【2010年3月31日】

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