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自分には何の価値もない、と自覚することがクリエイターのスタート地点

このところ随所でこじらせの話をするんですが、その焦点はこじらせクリエイターです。

こじらせクリエイターとは、おそらくいろんな解釈があると思われつつ、僕としては「自分への高い評価または可能性」と「世間や社会からの客観的な評価」に著しいずれがあってやきもきしている状態のクリエイターのことを指しています。

要するに、「自分はすごい(はず)」という自尊心に対して、社会が全然見向きもしてくれない状況にあるクリエイターのことです。

残念ながら、往々にして社会からの評価は真っ当であり、クリエイターとしての力量不足であることが大半です。でも、その事実を受け入れられず、非を自分ではなく社会に求めてしまう……こうなるとこじらせが悪化していき、どんどん卑屈になっていきます。

とはいえ、このこじらせ状態はクリエイターなら誰もが陥ります。なぜか? それは、たいていのクリエイターは最初に高い評価を受けるためです。誰から受けるかというと、家族や親しい友人、教えを請うている先生からです。

そばにいる人たちは歩み始めたばかりのクリエイターの作品を否定せず、作り上げたこと自体を高く評価してくれます。この小さな成功体験はクリエイターにとってたいへん貴重で、次の一歩を踏み出すために絶対に必要なものです。

しかし、言うまでもなく、そばにいる人たちからの評価は多分に作品外の事々への評価も含まれており、客観的で公平な評価ではありません。言い換えると、単なる身内贔屓です。

この身内贔屓を何度も受け続けると、クリエイターも感覚がバグっていき、「自分はすごい(はず)」という気持ちを高ぶらせていきます。ちなみに、この身内贔屓はごく狭い範囲でだけ受けた高評価も含まれます。井の中の蛙というやつです。

そしていざ大海原へ漕ぎ出し、広く作品を発表して社会からの評価を受け、結果散々な目に遭うと、「いい作品なのに分かってもらえない」と思うようになっていきます。いわゆる他責思考ですね。

このこじらせのまま生きていくのは、僕はクリエイターとしての幸せにはとても遠いと思っています。皆さんはどうでしょうか。自画自賛のクリエイター人生は、少なくとも「自分はすごい(はず)」という自尊心を守れるので本人にとっては幸せかもしれない、と捉える人もいるかもしれません。

ただまあ、こういう人が大成することはほぼありません。では、大成するには……というより、身内贔屓の後遺症から抜け出し、社会からの評価と向き合って作品を作り始めるにはどうしたらいいのか。

その方法の1つは、「自分や自分の作品には何の価値もない」と自覚することです。誰も認めてくれないし、誰からも求められない、本当に一切の価値がないんだと認識し直し、ゼロからスタートすることです。

歪に肥大した自意識を破壊するのは簡単ではありません。おそらく苦しい行ないになるでしょう。ですが、自分に何の価値もないことは事実であり、それを受け入れない限りは前に進めません。

よほど技術的・思想的に突き抜けているなら話はまったく別ですが、そんな天才肌を抜きにすれば、独りよがりの作品を誰かに受け入れてもらうことは難しいと思います。

クリエイターであるがゆえに他者からの承認はほしくて仕方がないもののはずです。他者からの承認を得たいのであれば、身内贔屓に浸っていた幼年時代を捨ててゼロからスタートしなければなりません。

一方で、社会からの評価を気にしないのであれば、好きに作り続けるのが心身ともに健全でいられる方法ではあります。ただその場合は、自分や自分の作品に社会的な価値はなくてもいい、自分はこれが好きだから作り続けている、という開き直りをしておいたほうが気が楽です。社会を(不当に)呪いながら創作を続けるのは、けっこうしんどそうですからね。

自分が無価値であると自覚することは、見方を変えればこれから価値を積み上げていけるということで、僕はとてもポジティブなことだと考えています。自分に過度な期待はしないでおきつつ、いまできる最上のものを作り、そして知られるように努めることで、クリエイターとしての価値が積み上がっていくことでしょう。

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