「自分は人のことを見下してしまうのですが……」という質問に対する回答が、見事に、その質問者を見下した内容のオンパレードであった

(ネットの質問サイトで表題の出来事を見かけました。)

まるで自分はその質問者よりも高い次元におり、質問者の方が劣っているのだと言わんばかりの論旨を繰り出してくる、そんな回答の数々。質問者を改善へと導くことができるのだという確信と自己有能感の披瀝に躊躇いがない。

回答者の面々は(全員ではないが)なぜ気が付かないのだろう。

あの質問は、自分の中にある「他人を見下す心理」を自ら進んで直視するという、強くて正直な精神がもたらした誠実な反省であることに。その必死な告白であることに。

例えるなら、もううろ覚えだが、『走れメロス』の主人公が、自分との約束を友人が果たさないかもしれないと疑った気持ちが自分の中に寸分でもあったことを自ら告白して、だから自分を殴れとその友人に言う、あれと同様の証言である。いわば、懺悔なのだ。

それを回答者は、お気楽にも額面通りに受け取って「それはいけませんね」とか「若いときは私もそうでした」と気分良く高説を垂れるばかりで、

あの質問の真価をわかっていない。

回答の内容はどれも、きっと決して間違ってはいないだろう。ひとつひとつが、それ自体では優れた視座であるには違いない。

年齢、人生経験、くぐり抜けてきた試練や困難、挫折や成功、築き上げてきた実績、そういったものが各人の自信や哲学を形作り、確固たる指針となり、それが言葉となって現れる。それぞれが独自に重みのある回答であるのには違いない。


しかし、ただひとつ、問題がある。

それは、多くの回答者が、「“自分こそが”他人を見下してしまっているかもしれない」という、“この問題”に疎いことである。

自分は他人を見下してしまっているかもしれない、いや、考えてみれば「かも」なんて程度ではなく、きっと見下しているに違いない……自分がしてきたような努力をせず、自分がしているような心掛けをしない人のことを心の底で見下しているのではないか、ああ、自分はなんて高慢なのだろう。という、この洞察に彼らは縁遠いのである。


「自分はそれに当てはまらないだろう」

「自分は他人を見下しているつもりはない」

そうお考えなのだろうか。

「他人を見下してしまっている人っているよね。そういう人は精神のレベルが低いよね」

その考えこそが他人を見下していないか?


他人を見下してしまうことを、自分には(もう)縁のない問題だとおめでたくも考え、「他人を見下す人」というレッテルを仮想敵に張り付けて一方的に悪者・未熟者扱いする調子の良さ、自家撞着。彼らの言葉の、曇りの不気味な無さと、そしてなによりあの諭す論調に「(回答者である)自分はあなた(質問者)よりも優れた人間である」という脂ぎった自意識がありありと現れているではないか。


哲学者のウィトゲンシュタインの言葉で「同じようなことを考えたことのある人にしかわからないであろう」という趣旨の、弱腰な保険じみた断り文句があったのを思い出す。

回答者は「“自分こそが”他人を見下してしまっているかもしれない」可能性を深く考えた経験がない。この点に気が付いたことがない。だから、あの質問に労いの言葉も共感の言葉も投げかけることなく、自分の方が師匠であるのだという甘美な物語から目が離せず、無意識に公然と相手を見下すのである。あの健気な質問者と違って自覚することなく。

あの質問はもはや罠であった。他人を見下す心理を白状したところ、多くの人がその言葉を見下しにかかったのだから。



あの労うべき、愛すべき質問に、私なら、手短にこう答えよう。いま、ふと思いついた。

あなたは、言うほど人を見下していないと思う。なぜなら、俺がいるからだ。俺はあなたの何倍も人を見下している。だから安心しろ。お前はイイヤツだ。

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