後遺症が残った過失10の交通事故に遭った話③ 怒る医師とホネ健康家族

こんばんは。
もう4月に入りますね。
私は諸々で病院が大変苦手になりまして、
異動や引っ越しの度に、周辺で「気軽に行ける病院」を探すのに苦戦します。

アトピーなので皮膚科、
ぜんそく・食物アレルギー持ちなので内科、
眼に後遺症があるので眼科、と、
総合病院は苦手なので、それぞれの科のクリニックを探しまくります。
口コミが良くても私は苦手だったり、逆も然りで、とにかく先生と自分の相性だなと実感するばかりです。
新生活を迎える方々が自分にとって良いと思える医師に出会えるように願っています。

それでは、前置きが長くなりましたが、
前回からの続き、入院の日々について等をお送りします。


両親と自宅に帰った私は、それから3日間を自宅で過ごしました。
親に迷惑はかけられないと奮起し、
恥ずかしいのもあってとにかくトイレだけはどうにかしようと、
3日間、言葉そのままに這いずり廻ってトイレに行きました。

親が心配するのが嫌で、私からトイレまでの動線に誰も居なさそうな時を狙って、
唯一痛まずに動く右ひじと割と痛くない右足を駆使しつつ車いすから這い出していました。
たまに親に見られて「ああ!どうして言わないの?!」と甲高い声で言われた時は
「いやぁ、ほふく前進の練習中でね。痛みの少ない動きを検証しているのだよ、ははは。」
とかバカみたいな発言をしてやり過ごしていました。
親も3日目になると笑っていました。

そして、親が話を切り出しました。
「最低でもどこかの病院には見てもらった方がいいんじゃないのか?整形外科とか。このままここに居たら治ったかもわからないじゃないか。
とはいえ例の車いすも貸してくれずに追い出された病院に通院するのは、それはちょっとな。」
・・・例の市民のための総合病院に対する発言が不穏なので、親も結構怒ってたんですね。私もあの病院には二度と行きたくありません。
正直、対応の雑さがシベリア抑留された日本人になったような気になりました。薬も湿布も何も出してくれなかった気がするし。

今思えば、
当初はうちでごろごろさせようと思ってた風なのに唐突に翻したこの親の発言は、
あまりにも私がこそこそ這いずり回っているのが見ていられなくなって、不憫だったんじゃないかと思いますね。
3日目に笑っていたのも、なんか疲れて笑えちゃったのかもしれません。

そして4日目、我々は田舎在住のため車で1時間かかる一番家から近い総合病院へ向かいました。

私は両親に担がれて車から車椅子に移動し、受付に行こうと玄関をくぐった時点で、
あわてた様子の病院スタッフさんがやってきました。
なんせ、まず車いすだし、
親が巻いてくれたガーゼや湿布にまみれ、左目が開いていない、各所打撲痕と擦傷だらけの紫色をしたムーンフェイス(私)が、くたびれた両親とジャジャーンと登場したわけです。
どうみても重症だけど見たことがない患者です。

『どうしたんだ!』『なんだあれは!』と内心思っているのでしょう、そうっと、しかし確実に待合室にいる患者たちがチラ見してきます。

「これは。どうされましたか?」
スタッフさんが困惑しています。
父が朗らかに答えました。
そう、父は急にいい人そうな外面を装着し、実質農家ですがサラリーマン顔をしました。
「この子が学校に通っていた隣の県で車に跳ねられまして、救急搬送された先の病院で「また来てください」と帰らされたので困りまして、実家のこの地方まで連れ帰って家で過ごしていたものの、やはり治療を受けたほうがいいのではと思いましてここに・・・」
「まあ!」
スタッフの方はとにかく驚いていましたが、情報量が多すぎて理解しきれていない感もありました。
「とにかく整形外科ですね。先生に詳しく話してください。受診しましょう!」と、我々は整形外科の待合ゾーンに案内されました。

その時点で、私も両親も、
『病院ってこんなに優しいところだったっけ?あれ?4日前はあんなにみんな冷たかったのになぁ。』
という、知らぬ間に我々は異世界に来たのでは疑惑すら感じていました。

そしてあまり待たないうちに診察の順番がきました。
診察室に入るや否や、ほのかに怒ってる医師がいました。我々は怖がりつつも受付で話した内容を再度伝えました。
医師からは、救急搬送された病院とその後に2次搬送された病院名を聞かれたので答えました。
「とりあえず検査しましょうか。頭を打ってますからね、念入りにしないと。」と医師にムッとしながら言われ、検査に向かいます。

検査後、再度の医師の診察で、ようやく怒っている理由が判明します。
「そもそもね、なんで入院してないんですか?もう事故から4日!なにかあったら、自宅で急変したらどうするんですか!頭を打ってるんですよ?!」
うわ、怒ってる!医師がわかりやすく怒っています。そして続けました。
「なんで、なんで入院してないんですか。入院ですよ!今日ここに入院!見たらわかるじゃないですか、こんな状態で。ありえない!このまま帰すなんて!」
なんと、医師は私たちにではなく、2次搬送された病院の対応に怒っていたのです。
しかもとんでもなく泣きそうな顔で怒っています。

私は思いました。
『このお医者さん、すごく良い人だな。こういう医者が増えるといいな』と。
私は、このときなんだかとても嬉しくて、事故にあってから初めて涙を流しました。

例の市民のための総合病院での対応を経て、
「あなたは死なない程度なら放っておいて良いくらいのくだらない人間です」
と言われている気がしていました。あまりにみんながそういう対応をしてくると、自然とそう刷り込まれてくるわけです。
大切ではない、できれば顔も見たくないくらいの人間。
ひょっとして、死んだ方が良かったけど運命が間違えて死ななかっただけなんじゃないか。

この医師(付き合いが続くのでここからは先生と呼びます)は私に、
生きて、安心できる場所で健全に過ごしていて欲しい、
ないがしろにされるべきではない人間だ、
と声に出して、泣きそうになりながら訴えてくれているように感じたわけです。
しかも今書きながらまた泣いてしまいました。
この先生に出会って、先生が怒ってくれたから、私は随分救われました。

先生はとにかく怒っていました。
その後漏れ聞こえてくる会話からして、おそらく2次搬送された例の病院にも怒った内容の私のカルテ要求をしてくれたと思います。

勤労学生ごときが市民のための総合病院に物申せる訳もなく、
『これは泣き寝入りだな。くたびれた女医さんが気にして、その後の経過を問い合わせしてくれてたら怒ってくれたかもしれないけど』
とここ数日思っていたのに、
先生は物申してくれました。

そしてなんといっても、
私の入院が決まり、両親はほっとしていました。


事故後4日も経っているので、私の骨折は明瞭なものを除いて見つけにくくなっていたと思います。
先生も自分で確実に認めたものをカルテに記載したいのもあって、はっきりわかる鎖骨骨折、足の腓骨骨折を怪我として認定しました。
一番最初に女医さんが認めた、上顎、下顎骨の骨折、眼窩骨と手首の骨折の可能性は、可能性はあるけど認定しない、という方針になりました。

そして、
これまた私はのちに後悔するのですが、
先生は、
「副作用や体質の問題が出ることがあるから、弱っている今はおすすめしにくいけれど、造影剤を飲んで検査すると細かい怪我が判る時がある。おすすめしきれないけど、どうする?」
と尋ねてきました。
私はまだこの時は例の病院のお陰様で精神的に疲弊しきっていたので、
「おすすめしきれないなら、やらなくて大丈夫です。」
と、空気を読んでしまいました。

この時、絶対に造影剤検査をして、この事故で発生した怪我を全て認定した方が良かったのです。

私の怪我の原因は交通事故であり、
今後、私を「当たり屋」認定したい相手の保険会社は保険を渋るわけです。
その根拠は、たいしたことない怪我、当初は入院にならなかったこと、です。
本当は、当初の女医さんの見立てでは色々複雑に骨折していました。
4日も経つと骨だって修復します。細かい骨折なんて、造影剤でも飲まないとわからないくらいに癒着するはずです。

現に幼少期、
私は手の指の骨折を「突き指なのにそんなに痛がって!情けないヤツ!」と兄に後ろ指をさされ放置した結果、一週間後にはもうしっかりくっついていました。
骨が変に曲がったまま。
当時の私はピアノを習っていて指が長いリストに憧れていたので、
外側に屈曲した指に、
『悲しむのはやめて、”ピアノを弾くときに今までより遠い鍵盤に届くようになった”と思うことにしよう』
とひとり決心しました。
とはいえ、リストは難しくて無理だなーとピアノはその1年後に辞めました。
”何かあったときに指だけ見つかっても、家族が「この指は、あぁ!間違いない。娘です!」と言える判断材料”、と思い直すことにしました。
指は成長した今も曲がったまま元気に活躍しています。

家族と言えば、うちの家族は全員骨折したことがあります。
誰もが医師もびっくりの回復ぶりで、私は骨が結構すぐくっつく、ホネ健康家族一味なのです。

アダムスファミリーもといナイトメアビフォアクリスマス方向に脱線しました。
失礼しました。


入院して3日くらいは頭を打ってるので様子見でM&Aみたいな名前の集中治療室にいましたが、
そこからは看護ステーション前の重症患者用の団体室に移りました。
メンバーは楽しい年配女性5名と私です。
この病室で私は一ヶ月過ごしました。

外科系疾患の女性、腰を骨折した女性、背骨を骨折した女性、足を骨折した女性と、火傷で皮膚移植をする女性、と私。
骨折バリエーション豊か+アルファな、楽しい病室でした。

毎日青春時代の思い出の歌を披露する時間があり、
「今が青春よ!氷川きよし!ズンっズンズンズンドコ!」
「「キヨシー!!」」
とか言いながらみんな笑っていました。
自宅のご近所さんなんていない空間では赤裸々な話が飛び交います。私はここで、70代以降の夫婦事情、恋愛事情を学びました。
『こんなにうるさいのになんで看護師さんは怒んないのかなぁ』とうるさくしながら思っていました。
理由は後々わかることになります。


ようやく明るくなってきたあたりで、今回は終わろうと思います。

ギアスを発動させようと思いましたが、
ホネホネ家族の話のために長引いたので次々回に持ち越します。

さっき要らないなと消した文章で「万が一」って書いたら「ガッツだぜ!」が脳内でリピート再生され始めました。万が一金田一。

そういえば、
この病室の無香・無ハウスダスト空間は人生で一番快適でした。
骨は折れてるのに、普段の何倍も体が軽いし息をするのが楽でした。夜もよく眠れました。
『健全に生きるのってこんなに楽なんだなぁ、これなら長生きできそう』と今のところ人生でこの時期だけ思いました。
しかも運良くみんなさっぱりした良い人でした。

生きてたら楽しい時もいいこともある。でも嫌なこともたくさんある。
運悪仲間のみなさん、お互い頑張りましょう。

それでは、よい夜をお過ごしください!