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何者にもなれなかった「かつて天才だった俺たちへ」

誰しも、小さい頃の武勇伝は大なり小なりあるだろうと思う。

小さな小学校内の読書感想文コンクールで一位を取った。
児童会に立候補し、いろいろな役職を体験した。

中学校ではテストの順位が発表されるようになり、上位1%に入る「頭の良さ」だった。
部活は合唱部に入り、自分が一番上手い自負があった。

高校では部活を3つ掛け持ち、部長も担い、忙しくも楽しい高校生活を送った。

大学では、自分でサークルを立ち上げ仲間を募り、外部の大人と交渉をするなど、思い描いていた「かっこいい大学生」になった。

社会人。入社後の研修。
そこでようやく、現実を見た。


Creepy Nutsの曲に、「かつて天才だった俺たちへ」という曲がある。
その一節で、このような歌詞がある。

かつて天才だった俺たちへ 
神童だったあなたへ
似たような形に整えられて
見る影もない
Creepy  Nuts「かつて天才だった俺たちへ」より

「天才」「神童」だった私は、いつのまにか「整えられて」いた。
気づかぬうちに変化したものだから、自分で自分のことを過大評価し続けてしまっており、考えて動く力が育っていなかった。


社会に出てまず躓いたのが、「自分は何でも上手くできる人間だ」と勘違い(もしくは自分で自分を洗脳)していたことに気づいてしまった瞬間だった。

小学校の読書感想文は、そもそもコンクールに提出したいと思って書いている同級生が少なかったから一位を取れた。
児童会も、やりたいと思う人が少なかったから選挙はほぼ自動的に当選だった。

中学校の「勉強」は人より少しだけ「覚えること」が得意だっただけで、合唱部の歌の上手さもあくまで主観的な、そして部員数10名の中での話だった。

高校の3つの部活の兼部についても両立ができていたわけではなく、確実にそれぞれの部活に皺寄せが行っていたが、それに気づかないふりをして楽しさだけを甘受した。

大学で立ち上げたサークルについても、優秀なメンバーと周りの大人が温かく支えてくれていたからこそできた活動だったことに、大人になってから気づく。

これらは全て、自分の力で成し遂げたと思っていた誇らしい思い出だった。


酔っていた。
小さい頃から大人たちにチヤホヤされ、自分はできる人間だとまどろみながら大人になってしまった。

目が醒めてしまった。
現実は厳しい。できないことが露わになっていき、大きく固まっていた自尊心がどんどん崩れていく。
ぽつんと、ネガティブな自分だけが残った。

そんなある日、Creepy Nutsの「かつて天才だった俺たちへ」をYouTubeで耳にした。
曲名を見ただけで胸に刺さり、聞いてみると歌詞が心を揺すぶった。

私だけじゃなかったのだ、と「安心」したのを覚えている。

かつてのちっぽけな栄光にしがみつき、同世代の輝かしい有名人を見ては「一歩違っていたら私もあっち側に行けていたかもしれない」と夢想した、燻った私たち、俺たちが世の中にはたくさんいるのだろう。

どこまで行っても一般人であり、消費者なんだと、認められない私がいた。
でも、やはり私は一般人であった。

それならば、どこにでもいる一般人で楽しくやれることをやろう。
何者にもなれなかったが、「私」ではあるから


新しい名前を自分につけた。新しい友達を作った。TikTokを始めた。仕事にも前向きに向き合うことにした。
そして昨日、noteを始めた。

何にだってなれたanother way
まだ諦めちゃいない
Creepy Nuts 「かつて天才だった俺たちへ」より

何かをしたいという欲求だけは本物だから、筆を取ってみた。
共感いただいた「かつて天才だった」方がいたら、ぜひ曲も聴いてみてほしい。

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