マガジンのカバー画像

佐久・望月―式部からの発信~鳴き続ける蟋蟀こおろぎでいたい

7
『夢三夜』『銀河鉄道の夢』の著者である、農民作家・飯島勝彦さんのブログ記事をまとめています
運営しているクリエイター

記事一覧

⑥「農民文学会」70周年に思う 不思議を辿り道中の落とし物を拾う~佐久・望月―式部からの発信~鳴き続ける蟋蟀でいたい(農民作家・飯島勝彦)

 私が会員になっている「日本農民文学会」が、今年創立70周年になった。年3回発行する会誌(春・秋・冬)の秋号(9月)と冬号(1月)を記念号とし、会員の「農への思い」を特集するとあり、6月の締切日までに規定の原稿用紙5枚弱を送った。  会は昭和29年(1954年)11月の創立。翌30年4月の総会で初代会長に和田伝がなっている。同年5月に会誌「農民文学」を創刊。8月の第2号に「農民文学賞」の創設を発表。31年から現在まで毎年続いている。  私が入会したのは平成14年(2002年

⑤「寛解」の地球 ムダづかいしてはいられない~佐久・望月―式部からの発信~鳴き続ける蟋蟀でいたい(農民作家・飯島勝彦)

 「おかげさまにて『寛解』に至り、以後在宅での治療になりました」 医療機関に勤めたことのある友人から、入院見舞いの返礼が届いた。「全快」の退院ではない表現が珍しく「広辞苑」を引いてみた。  「寛解(かんかい)」は、くつろぐことのほかに「病気そのものは完全には治癒していないが、症状が一時的あるいは永続的に軽減又は消失すること」とあった。「大辞林」には白血病や精神病などが具体的に加えてある。友人に問うと、定期的に透析を受けるが、ふだんは服薬と食事療法を守れば暮らしに支障はないとい

能天気を恥じお詫びします

 “ロダン”とすべきところを“ゴッホ”と書いてしまった。拙著「銀河鉄道の夢」(梨の木舎刊)の「少年」中(17ページ左から7行目)である。発刊から18カ月もたってそれに気づいた。羽田ゆみ子社主に相談し、梨の木舎のホームページへ載せるエッセーに、詫び文を加えたらどうかとアドバイスをいただいた。後悔と、汗顔の思いでそれに従う。  小説は、少年が中二の時、新卒でクラス担任になった小林亘(わたる)先生にふれ、まだ詰襟の学生服で教壇に立つ(白皙の長身によく似合った)先生の初宿直を訪ね、

④国民の安全は戦争をしないこと~佐久・望月―式部からの発信~鳴き続ける蟋蟀でいたい(農民作家・飯島勝彦)

 本稿の初回は、「国を守るならば、軍備ではなく、防災と食糧自給を急がなければならない」と、少々大袈裟に振りかぶってしまった。この国のあまりにも情けない政治に、業を煮やした蟋蟀のひと鳴きだったが、元日に虚を衝くような能登半島地震が起きた。  2回目にそのことを書き、前回は食料不安について書いた。「食料・農業・農村基本法」を改定するというのに、国内自給率の目標を削除し、輸入と、あろうことか輸出の伸長を図るという。「有事」で不足したら、農家・農業法人に芋の作付けを強制する…呆れた中

③国民の安全は食べる物があること~佐久・望月―式部からの発信~鳴き続ける蟋蟀(こおろぎ)でいたい(農民作家・飯島勝彦)

  地震や、異常気象や、戦争で、地球が世界規模で壊れていくのを見ていると、余命少ない身でも先が不安になってくる。  むらに住んでいて気になるのは、住民の高齢化と、耕地の荒廃と、空屋の増加である。見渡すかぎり人気(ひとけ)のない時間と空間が続くと、ここはどこかの自然遺産に登録された、「令和のむら」という名の展示会場ではないか、などと思えてくる。――そして、ふときた疑念が「この国の食料はどうなるのだろう?」という不安。  政府が「食料・農業・農村基本法」(「農業基本法」が25

②元日の能登半島大地震――「国民の安全を守る」とは? 佐久・望月―式部からの発信~鳴き続ける蟋蟀(こおろぎ)でいたい(農民作家・飯島勝彦)

元日の能登半島大地震――「国民の安全を守る」とは?  元日から大変なことが起きてしまった。  新年の初日を家族で祝う夕餉前の団らんを、突如震度7の大地震が襲った。  能登半島では群発地震が続いていて、この2年間も毎年震度6前後が起きてはいたのだが、これほどの激震に遭ったのは初めてだという。  長野県東部にあるわが家(県地図の諏訪湖から軽井沢に直線を引いた中間点)でも、居間に掛けた鏡が左右に大きく揺れ、炬燵にしがみつく時間が20~30秒間続いた。東日本大震災では庭へ飛び出したが

①佐久・望月―式部からの発信~鳴き続ける蟋蟀(こおろぎ)でいたい①(農民作家・飯島勝彦)

 羽田ゆみ子さんから、梨の木舎のホームページへ何か書いてみないか、と声をかけられた。 梨の木舎からは以前『夢三夜』という小説集を出版していただき、一年前には『銀河鉄道の夢』を出してもらった。それを終(つい)の本としてホッとした思いと同時に、なにか忘れ物をしているような気懸かりと、老齢を逃げ道にしたような責めを感じていた。  まだリタイアの時ではないと、場所まで用意いただいたことを有り難く思う。  ゆみ子さんと私は郷里が同じで、住居は500mほどの近距離にある。集落名を「式部