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好奇心をとりもどす。もしくは思い出す。

 歳を重ねるごとに好奇心の大切さを感じる。しかし、私の歳は本当に重なっているのだろうかと疑いたくなる。いつの頃から一年がペラペラになっている。好奇心をどこかに置いてきたような気持ちになる。

 子どもの頃は好奇心が旺盛だった。自意識過剰で恥ずかしがり屋だったから美化しているかもしれない……。
小学校低学年はクラス長に選ばれるたびに泣き出していた。恥ずかしかったのだ。

ちなみに小学校低学年は皆勤賞である。身体が丈夫だったこともあるが、休むと何を言われるのだろうと怖かったことのほうが大きい。

 中学生や高校生になっても自意識の肥大化は止まらず、「有名人でもない自分がおしゃれなお店に入ってよいのだろうか」とか「自分がおしゃれな髪型にしたら笑われる」とか思っていた。
いつもどおりの散髪でも、次の日はどぎまぎしながら学校へ行った。

でも、恥を感じたということは好奇心の証拠ではないかと思う。
行動していないなら、恥も失敗も少ないだろうから。

 最近はどうだろう。振り返ると別の恥を感じる。「無知と思われたくない」という恥。わかったつもりで済ませてしまうことが多い。
「あぁ、それはこれでしょ」と自分が知っていることに、ぎゅうぎゅうに押し込んでいるため始末が悪い。

 世間では「でじたるとらんすふぉーめーしょん」が叫ばれている。「トランスフォーメーションがなぜ『X』なんですか?」と部下に聞かれて苦笑いで誤魔化した……。

いったいどれくらい苦笑いでやり過ごしてきただろう。食べたパンの枚数と一緒で覚えてもいない。

 MBO(目標管理)やPDCA、心理的安全性も、文字の印象からわかったつもりでいると間違った解釈をしやすい。そうすると「やる気」や「気合い」の問題だろうとやり過ごそうとする。それは組織の害にさえなる。

「無知と思われたくない」は害にさえなる。
立ちはだかる壁を階段にできなくなる。

課題や問題は実力不足だから壁に感じる。
壁を階段にしたい。
それなら、頼るか、学ぶか、しないといけない。

 「学ぶ」の燃料は好奇心か危機感だと思う。しかし、危機感は手遅れかもしれない。だからこそ、好奇心を取り戻さなきゃと思う。
そして、好奇心はみんな持っていたはずだ。あんなに恥をかいてきたのだから。

いったい、好奇心を取り戻すにはどうしたらよいのか。
秘訣はあるだろうか。

私は「未知」へ触れることだと思う。つまり、先に行動をする。

知らない場所へ旅をしてはどうだろう。

 「旅の恥は掻き捨て」という諺がある。本来の意味とは違うけれど、「恥知らずなことをするのではなく『知らない』という恥を掻き捨て、知ることを喜ぶ」にしてはどうだろう。

役に立つとかはどうでもいい。まずは、知る楽しさを思い知ろう。

「好奇心」を考えていたら、そんな気持ちを思い出した。

そうだ、知らないことを喜ぼう。


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