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パーソナルな部分を支援に乗せること

パーソナルな部分を支援(仕事)に乗せることはありか、なしか。

たとえば対象者の話を聞いて、自分はこう思った、とか、過去にこういった経験をしたと支援者が自分自身の考えや過去の経験を伝えることについてどう考えるか。
自分自身としては、そこに支援者の色が出ると考えていて、基本的には肯定的に捉えています。
その色が支援者の人間味で、それを感じた対象者はある時には安心し、ある時には親近感を覚えると考えます。ただ、「基本的には」としたのは、やはり際限があるからです。

最近、対象者の方からメールが来た時に、自分は自分の意見や体験を混ぜ込んで返信の文章を作成しました。一緒に支援をしている後輩の作った文章と見比べると、後輩からは「丸みを感じる」ということと「個人の考えを述べていいのかと迷って」と言われました。

そこでもう一度このテーマについて考えてみようかな、と思った次第です。

事例

今回のケースでは、シフトの調整についての相談、不満を述べる内容のものでした。
対象者はサービス業で働くAさん。連休に旅行をしようと考え、休みを取ろうと考えたところ、後輩のBさんがウキウキと「今度の連休は休みを取ろう」と話していることを聞きました。

そこでAさんが感じたことは、「Bさんは毎回こういった連休の時に休みを入れる。後輩なのだから先輩を立てるのが当然ではないか」ということ。
周りのことを考えるとBさんと同じ日程に休みを取るのは申し訳ないと考えたAさんはしかし、自分も休みを取りたいのにとジレンマを感じ、「後輩であるのに」と怒りを感じたようでした。

メールにはこれは「愚痴」であること、企業側の担当者には伏せておいてほしいことが記載されていたことから、私としては①本人の気持ちをまずは受け止め、②その上で「後輩であるのに」という考えをBさん含め他の人は持っていない可能性があることを示し、③本当にAさんとBさん両名が同日に休みを取ることは会社としてNGなのかを確かめてみてもいいのではと提案しようか、と3つの要点を頭で思い浮かべました。

その上で最重要なのは①の部分かな、と思ったところでした。

同時に、私個人としては「あるある」と思ったのと、「Aさんの気持ちわかるわ~」ということ、それから「自分も一歩間違えればBさんのようなことをしていたかも」ということを思いました。

後輩の文章との違い

後輩も同じくこの3つの要点に至ったようで、文章は概ねこの3つを抑えて作成されていました。
ただ、目立ったのは①よりも②や③の部分。
それから少し文章に角が立っていて、もう少し丸みがほしかった。

最も、この感じ方は私のものであって、対象者がどう感じるかは結果的には送ってみないとわからないところではありますが・・・。
私の感じたところを素直に後輩に伝えると、後輩も同じく「丸み不足」を感じたようでした。
そこでもう少し話をしてみると、冒頭の「個人の考えをどこまで書いたものかと迷った」ということでした。

なので、冒頭の通り自分は考えていることを伝えたところでした。
この1年半ほどの関りの中で、Aさんからメールを送ってきたのは2回ほど。貴重な1回を次につなげられる可能性があるので、最大限生かしたい。
だからこそ重要な「丸み」だよね、とふたりで意見を出し合い、後輩には悩んでもらって、加筆をしてもらいました。

結果

出来上がった文章は先ほどより丸みを感じるもので、それを送ることに。
2時間ほど悩んだ結果の返信でしたが、Aさんからはものの2分ほどで返信。
一言、「聞いてもらってスッキリしました。頑張ります」的な文章で・・・。

後輩は少しショックを受けていましたが、私としては「まあこんな感じかな」と。
悪くない悪くない。こちらが悩むほど、相手は求めていないこともある。そっけないようで響いていることもあれば、その逆もある。
きっと工夫したことが大事なのだよ。つまるところ自己満足なのだろうか?

支援者の意見や所感を返すメリット

なぜ私は支援者個人の意見を伝えることは「基本的に」ありと考えるか。

結論を言うと、そういった人間的な味がないと支援は意味がないと考えているからでしょうか。
上記の事例に対してだけではなく、聞かれたことに答えを返すだけであれば、それはきっと人間味がなく、冷淡なものになると思います。AIでもできるでしょうし、答えだけを得たいならネットにも転がっているかもしれません。

ですが、そこに「受容」とか「共感」が乗っかることで、対象者は安心するし、その後も継続的に相談をしようという気になるのかなと考えています。
その「また相談しよう」と思ってもらえることが相談支援をやる上では大事なことで、醍醐味だと思うのです。もちろん依存してもらおうとかそういうことではないし、無理に共感しようとも思いませんが。

支援者は対象者のことをいろいろと聞き取ります。でも支援者は自身のことを対象者に同じようには話しません。
対象者からすると、「この人の好きなものってなんだ?一体何者なんだ」と思われているのかな、と思うことがあります。そういったところが崩れる瞬間があると、「あ、この人意外と面白い人なのか」とか「同じこと感じるのか」と親近感を持ってもらえるのかなと考えています。
打算的でしょうか。後輩に説明している時は、「うわ、私打算的」と思いながら話していたわけですが・・・。

支援者の意見や所感を返すデメリット

一方で、デメリットもあると思います。
私という人間味を出し、そこに対象者が共感や親近感を持って話してくれることになるとすると、私が異動した時に、後任と対象者の関係にまで影響を及ぼす可能性があります。

なのであくまで「支援者としての機能に付随した人間味」程度で済むといいなとも考えます。が、この線引きはなかなか難しい。

極端にNGなのは、「支援者の機能としてしないことをする」でしょうか。これはもう人間味とかではなくやりすぎです。
あとは「全肯定」もNGです。受容や共感を重視したとしても、すべてを肯定する必要はないです。社会的に正しくないことや、行き過ぎた主張や思い込みには疑問を投げかけます。

あくまで「支援を円滑にするための人間味」というところですが、言語化するのは難しいし、自分自身も正しく使いこなせているかわからないので、それを念頭に意識的に使っていかないといけないことだと考えます。

でもまあ思うのは、自分が異動したら、後任は後任で信頼関係をつくるために後任なりに頑張ってほしいということでしょうか。
無責任でしょうか?でも支援ってそういうところからではないかなとも思っています。
支援機能として逸脱していない範囲で信頼関係を結んでいるのであれば、後任も違うアプローチであれど工夫はできるのではないでしょうか。
支援機能だけ果たせば信頼関係が結べるという対象者もいますが、そういう人ばかりではないですから。

まとめ

皆さんはどうでしょうか。
仕事の時はプライベートな話題を出しますか?自分自身の個人的な考えを述べ、それはそれとして・・・と公私を分けた話し方をするでしょうか。

個人的にはテクニック的に使うことはありかなと思います。
テクニックと言うと打算的ではありますが、結果テクニックになっているというだけで、自然と出てくる感情を適切な立場・タイミング・伝え方で相手に渡すのは人同士当たり前な営みかなと思います。それを意図的に縛ると、不自然になるし、相手も壁を感じるのではないでしょうか。

ただ、組織としての判断を逸脱した言動を取ることとは別のことです。
組織として逸脱しない範疇でのことという前提で話しているつもりです。
最も場合によっては線引きが難しいので、そこは意識をするべきなのだと思いますが・・・。

難しいですね。こういうことを話すと、後輩を困らせてしまうなと思いながら、つい自分の目指すことを後輩にも求めてしまいます。ふたりでやっている支援の難しいところですね。
正解はないのだから、不正解でない限りは後輩の思うままやってもらって、都度学んでもらい、自信をつけてもらいたいのですが・・・。

今後は自重もしないとな、と思った出来事でした。

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