ポンポさんとレディ・プレイヤー1
映画大好きポンポさんを観てきた。
原作は未読で、映画が公開されるのだから本屋さんに平積みされてるのかと思ったらそんなに甘くなかった。実に勿体無い話です。
因みに筆者は声オタなのだが、本項は声優については触れません。多分。
※以下、ポンポさんやレディ・プレイヤー1のネタバレを含みます。
感想としては実に良い意味で裏切られた。
と同時に、受け取り手によってはこの物語は共感を得られないかも知れない、とも感じた。
作劇としては、登場人物が全て魅力的であり、端役に至るまでそれぞれの役割がしっかりと割り当てられている丁寧さ。
成功を志す青年少女が苦悩しつつも夢を叶えていく王道のストーリー。
前半のスイスロケは、ジーンのメンター的存在のポンポさんや、現場をしっかりと支える実力派俳優ブラドック達に助けられ、神に愛されたかのような奇跡的なエピソードが続き、正に「ピンチをチャンスに変える」カタルシスが描かれつつポンポさん曰く「間違いなく賞を取れる」傑作フィルムが完成する。
このまま祝福の物語として着地するのか…と思いきや、中盤以降この作品はその牙を容赦なく剥き出しにし始めるのだ。
ジーンは「満たされない現実に対する渇望を抱いた存在」としてポンポさんにその才能を見出された。
彼はその才能を遺憾無く発揮し、初監督作でありながら実に72時間もの傑作フィルムを作り上げる。
しかし、映画は勿論その全てを収める事は出来ない。
物語の序盤でポンポさんはニュー・シネマ・パラダイスを「名作だが好きじゃない」と切り捨てている。その理由は「上映時間が長過ぎる」と。
幼い日から偉大な祖父により映画漬けの生活を送らされた彼女は、映画が好きな訳ではなかった。当時の自分にとって長過ぎる上映時間は苦痛でしかなく、その経験則上、老若男女の集中力が1番保つのは90分であると断言する。
(タイトルこそ「映画大好きポンポさん」だが、ポンポさんは「映画の申し子」であって「映画大好き」ではないと言う引っ掛けになっていて、彼女自身も心の底では「映画で本当に感動したい」と願っている事が作中至る所で示唆されている)
因みにこの時点でジーンは「映画は長い方が長く浸れるから好き」と反論し、ポンポさんに「これだから映画マニアは」と一蹴されてしまう。
エンドロールまで映画の余韻に浸りたいジーンと、エンドロールは見ない派のポンポさん等、随所で語られる「映画マニアと映画の申し子2人の対比」はこの上映時間に対する考え方に象徴されていたのだが、監督として成長したジーンはポンポさんが仕掛けたこの呪縛を「最適解」として受け入れている。
作品に必要なシーンとして撮影した、様々な人達の魂が籠ったフィルムを「切り捨てなければならない」と言う苦悩。
そう、
ポンポさんは「監督を志す青年が素晴らしい作品作りを通して成長する物語」ではない。
「才能を持った人間が、創作の為に様々な人達の想いを捨て去る物語」なのだ。
苦悩の末に辿り着いた結論は追加撮影。
「僕の映画には1つ、足りないシーンが有るんです」
切り捨てた上に「足りない」と言う傲慢さ。当然ポンポさんは大激怒(でも嬉しそう)。
勿論、ジーンには勝算が有った。極限まで研ぎ澄まされた才能は作品を己自身として完全に掌握している。あのピースさえ有ればこの作品は完璧になる。
そしてその妄執は「映画で感動した事が無い」ポンポさんを救う事にも繋がっていく。
(結果、プロデューサーのポンポさん自身が大変な目に遭ってしまう選択なのは大変業が深い)
しかし、ここで現実がジーン達を容赦無く襲ってくる。
試写が延期となった事によりスポンサーは離れ、折角の追加撮影プランも資金不足で暗礁に乗り上げる事になる。
ここで、前半から登場していた「かつてスクールカースト上位でありながら現在は現実に行き詰まった同級生アラン」が、会心の策でポンポさん達を救うと言う展開は、ベタではあるものの中々に胸を打った。
映画を撮る事より、映画を完成させるまでに重きを置いた物語。
物作りに対する諸々、正の感情も有れば負の感情も有る。
万人に受ける正統派エンターテイメントは、本来ならば正か負のどちらかを礼賛しなければならない。
この作品で描かれるのは呪縛であり、妄執であり、怨念だ。
ジーンの台詞
「映画を撮るか、死ぬかのどっちかしかないんだ」
過労で倒れたにもかかわらず、作品を自分自身と信じて病院を脱走し編集作業を続けようとする彼、そんな彼を止めようとするヒロイン・ナタリーへの言葉である。
真っ当なストーリーならここで愛を知り、呪縛や妄執を超えた先の領域に到達して編集は成功、ヒロインとも結ばれ…と言うクライマックスシーンである。
この物語ではここでジーンの妄執が肯定されている。ジーンは呪縛と妄執と怨念を抱えたまま苦境を打破する。ヒロインとも結ばれない。
「何かを作る為には、何かを切り捨てなければならない」
物語の中で繰り返し提示されていたこの命題は、正にそのまま結晶となり、ラストに賞レース(アカデミー賞を模したニャカデミー賞)受賞と言う形で結実する。
授賞式でジーンに向けられた「この作品で1番好きな所は?」と言う究極の問いに対する彼の答え
「上映時間が90分な所です」
呪縛や妄執からの解放、怨念に打ち勝つ正の感情、そんな物は一切ない清々しいまでのどうしようもなさ。ポンポさんが定義したオーダーをきっちり体現した痛快な結論である。
ジーンの成長物語は彼が負の感情を己が一部とし、栄誉とこの結論を手にしてポンポさんを感動させ、映画本編も丁度90分で大団円を迎えるのであった。めでたし、めでたし。
さて、この物語を鑑賞している最中、筆者の中に「この感情、最近何処かで感じたような…」との想いが有った。
巨匠スピルバーグが作り上げた「レディ・プレイヤー1」に登場したジェームズ・ハリデーだ。
ハリデーは「既に亡くなった偉大なるギーク」「自らが作り上げたゲーム(オアシス)内に遺産を隠した孤高の変人」として描かれ、作中に殆ど登場しない。にも関わらず、ラストで遺産を手にした主人公ウェイドの前に晩年の姿で現れ、幼少期のハリデー(のアバター)と一緒に寂しそうに自身の部屋へ去っていくシーンが、直後のハッピーエンドと強烈なコントラストを成していた。
TVで放送された際、Twitterで「主人公が脱オタクして絵に描いたような陽キャになった」とか、「スピルバーグが結局オタク全否定してて裏切られた」とか、まあまあ物議を醸していたように思う。
筆者はこの辺の一連の流れに疑問を抱いていた。
そもそもスピルバーグはオタク礼賛映画を作っていたのか。
中盤で権力者ソレントが「自分もギークだ」と嘘を吐いてウェイドを懐柔しようとするシーンが有るが、これは紛れもなくスピルバーグからの痛烈なアイロニーだろう。
実際、レディ・プレイヤー1公開直後にオタク界隈では「ガンダムが出てくるオタク向け映画」「スピルバーグはガンダムにも造詣が深い、オタクの味方だ」等と騒がれていた。
ソレントがオタクを甘く見て懐柔しようとする構図は、この様に物事の一側面だけで相手を簡単に仲間として信頼しようとする、オタクの浅はかな本質を的確に捉えている。流石の感性だ。
元々スピルバーグは生粋のギークであり、偉大なる先達である。その彼がラストシーンであんなに解り易い対比を仕込むだろうか。(作劇の都合上、現実とVR世界の関連性を独特の苦笑いルールで表現していたが…)
そもそも、ハリデーは「選択肢を間違えた失敗者」なのか。
彼がオアシスを産み出さなかったらウェイドは成功者にはならない。
サマンサと出会えたのもオアシスが有ればこそ。
ポンポさんで語られた「何かを作る為には、何かを切り捨てなければならない」と言う命題にハリデー、延いてはスピルバーグの姿勢を想起せざるを得ない。
余人の想像を超える妄執や傲慢、何を犠牲にしても構わない。それこそが「物を創る」という事に他ならないと言う心地よい歪み。
ポンポさんは、全てのクリエイターが直面する内なる歪みを肯定した傑作だと思う。
まあ、色々小難しい事を長々と書いてしまったが、ポンポさんが活き活きとしていて可愛いし、ここちゃんの「ポンポさんが来ったぞー!」は最高だし、かくましはまたエッチな声出してるし、脇を固める声優陣の演技が(大谷凛香さんは…まあ…)素晴らしいので是非劇場で観て欲しい。結局声優かよ。
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