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稔 第4回|スキーと連れ合いの話

昭和55年、25歳の時に建築技術職として私は区役所に入区した。所属は建築課。建築技術職員の区役所でのポストは、建築課、営繕課、教育委員会の施設担当などである。そのような職場は圧倒的に男性が多い。最近では建築や土木の分野へも女性がどんどん進出しているが。男性ばかりの職場で親睦といえば、スキーと野球が盛んな時代だった。同僚との親睦という名目ながら、職場の伝統や封建的な先輩後輩の関係もあり、表向きは強制ではないが、参加しないと「あいつは……」という声にもなりかねない。入区した時の親睦旅行の行き先は長野にある野沢温泉スキー場だった。

ここで、スキーについて少し説明する。私は当時まだスキー技術が未熟で、ボーゲンの延長で緩斜面であればパラレルではなく、通称「バラレル」程度がやっとの危なっかしい滑りであった。スキーはスポーツだが、一定レベル以上からスポーツと呼ぶに相応しい身体、筋肉の動きがあり、それ以下の初心者は斜面の恐怖からボーゲン型で身体が固まり、ロボットのような動きになってしまう。

その日のゲレンデには、アイスバーンやコブがあり上級者用の急斜面もあった。そんな中、職場のベテランについて行くこもできず、ベテランが「じゃあ、このリフトの乗り場で集合ね」と言ってシュプールを描いて行くのを見てから、慌てて私も出発する。遅れては迷惑がかかるので、自分では最大限の速度で滑っているつもりである。転倒してスキーの板が外れると、靴の雪を叩き落とし板を装着する時間で余計に時間がかかり迷惑をかけることになるので、転倒しない程度の自分にとって最大限のスピードを見極めながら滑る。

職場は男性がほとんどなので、「つて」を頼って区立保育園の保母さんの参加を募った(現在は女性保育士という)。連れ合いと初めて会ったのは野沢温泉スキー場だった。スキー場では、前記した通り、お互いベテランについていくのに必死だったので、ゲレンデで恋の花が咲くということはなかった。スキー旅行から帰ってきたあとに、旅行の写真を女性陣に渡すために会って、付き合いが始まった。

その後のある日、2人で大宮公園に行った。その時、私はうっかり車のキーを落としてしまった。夕方の駐車場で2人は呆然となった。結局、私は葛飾の実家へ予備のキーを取りに行き、連れ合いは車の番兵をすることになった。番兵が必要だと思ったのは、キーを拾った人が夜の駐車場にポツンと止まっている車を発見するかもしれないからである。
3時間後、夜8時頃に私は現場に戻った。
私「寒くなかった」
連「大丈夫、走っていたから」
私「ありがとう」
5月の初めだった。昼間は半袖でも過ごせるが、朝晩は上着が欲しい季節である。その時、連れ合いは半袖で、夜の駐車場をグルグル走り回って私を待っていてくれたのである。

連れ合いは、実家が浜松のため職員寮に住んでいた。職員寮ではしばしば手料理をふるまってくれた。結婚するまで実家で育った私は、一人暮らしの連れ合いの炊事、洗濯、掃除する姿に「なんてしっかりした人なんだ」と感心した。

たまに寮に泊まることがあった。寮は5階建てで、1~2階が男性、3~5階が女性ですべて個室になっている。泊まり明けの朝、私は寮の前で職場の同僚とばったり会ってしまった。同僚は「あれ~~~、寮に住んでいたっけ」と、ちゃかすように言った。
2人の関係が職場にばれてしまった瞬間であった。

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1955年生まれの父・稔が半生を振り返って綴り、娘の私が編集して公開していくエッセイです。執筆時期は2013年、57歳でした。

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