「制限を知った上で自由と責任を」法三章耳

法は三章のみ
―法三章耳―

[原文](史記 高祖本紀)
法三章耳。

[書き下し文]
法は三章のみ。

[原文の語訳]
法律は三ヵ条のみとする。

[解釈]
前支配国のもとで苛烈だった法律を廃止し、殺人、傷害、窃盗の三罪のみ罰することに定めるとした故事が由来です。

あまりルールや規則が厳しすぎると息が詰まってしまったり、人というのは抜け道を探したくなるものです。

三罪は罰しないという寛容さは性善説に基づいているのか、あとは各人の道徳心に委ねられることになります。

学校により私服でよかったり学則も簡素、それでも学生たちが自ら暗黙の独自ルールを作ることで、決して学校の質が落ちないとう例も見受けられます。

逆に法律が厳しくなるのは、不道徳な人が出てきて治安と安全が脅かされるからです。飲酒運転や通話による片手運転やスマホ操作運転など周りに害を及ぼす危険行為から取り締まりが厳しくされてきたのです。法治万能主義は性悪説に基づくのです。

自由化することで門戸が開放され活性化する一方で、劣悪な条件が生まれたりします。簡素・緩やかにするにも、どこまでタガを緩めるか、緩められた環境下でも各自がきちんとコントロールできるかがポイントになりそうです。

「ご自由にどうぞ」とあると際限なく...ということもありますよね。食べ放題でもテーブルに大量に持ってきていながら、食べきらずに残していくなど。

自由になるには、まず制限を受けた経験が前提です。制限の中で「ここまでは大丈夫」ということを知った上で開放されれば、自然と制限内で治まるのです。また自由にはあわせて責任も伴わなければいけないのです。

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