【PR】祝!『月の光』発売記念コラム〜謎の光を追え

『月の光 現代中国SFアンソロジー』収録の宝樹の中篇「金色昔日」にはロシアの文豪プーシキンの詩が引用されている。こういう詩である。

Если жизнь тебя обманет,
Не печалься, не сердись!
В день уныния смирись:
День веселья, верь, настанет.
Сердце в будущем живет;
Настоящее уныло:
Все мгновенно, все пройдет;
Что пройдет, то будет мило.

『プーシキン詩集』(岩波文庫)の金子幸彦訳では以下の通り。

日々のいのちの営みがときにあなたを欺いたとて
悲しみを またいきどおりを抱いてはいけない。
悲しい日にはこころをおだやかにたもちなさい。
きっとふたたびよろこびの日がおとずれるから。
こころはいつもゆくすえのなかに生きる。
いまあるものはすずろにさびしい思いを呼ぶ。
ひとの世のなべてのものはつかのまに流れ去る。
流れ去るものはやがてなつかしいものとなる。

『プーシキン全集1』(河出書房)の草鹿外吉訳ではこうだ。

人生に裏切られたからといって
悲しんではいけない 腹をたててもならない!
気のめいる日には 心おだやかに暮らせ。
喜びの日は きっとやってくる。
心は未来に生きるもの。
現在は 愁いに暗い。
ものみな たちまちうつろい 過ぎ去っていく。
過ぎされば それはなつかしくなろう。

短く素朴な言葉の中にも力強さを感じる詩で、キュイやグリエール、メトネルといった同郷の作曲家たちも歌曲の詞として取り上げている。

この詩が書かれた1825年といえばデカブリストの乱が起きた年。当時、プーシキンや友人の青年貴族たちはロシアの旧弊さを憂い、専制政治の廃止や農奴解放といった理想に燃えていた。この詩にもつらく苦しい日々の生活の向こう側に見える未来への期待、前進の意志が見て取れる。もっともその理想もデカブリストの乱の鎮圧によって一旦は挫折してしまうのだけど。

さて「金色昔日」の翻訳にあたり、訳者の中原尚哉(以下敬称略)は新たに訳を行っているが、これを上記の既訳と見比べると奇妙な点に気付く。元になった英訳と合わせて見てみよう。

運命に欺かれても悲しまず
憂鬱な日も静かに信じよう
楽しい日は将来巡ってくる
心はいつまでも未来を待つ
今が憂鬱でもすべては一瞬
すべていずれは過去になる
そして過ぎた日を顧みれば
温和な郷愁の光に包まれる
Life’s deceit may Fortune’s fawning
Turn to scorn, yet, as you grieve,
Do not anger, but believe
In tomorrow’s merry dawning.
When your heart is rid at last
Of regret, despair, and fear,
In the future, what has passed
Shall in kinder light appear.

おわかりいただけただろうか。個々の表現の差異はあっても全体として似たトーンを保っている中で、中原訳の(そして英訳の)最終行には他の訳にはない「光」という語が入っているのだ。

機械翻訳を通してではあるがロシア語の原詩、そして中国語原文の引用部も確認してみたが、やはり光という語やそれに類するイメージは含まれていない。とすると、この光は英訳の過程で突如現れ、それが中原訳にも反映されていると考えられる。はて、この光は一体何なのか。

念のため、英訳もいくつか比較検討しておこう。まずはインターネットでプーシキンの英訳を検索するとよく見つかるミハイル・クネラーという人物の

If by life you were deceived,
Don't be dismal, don't be wild!
In the day of grief, be mild
Merry days will come, believe.
Heart is living in tomorrow;
Present is dejected here;
In a moment, passes sorrow;
That which passes will be dear.

もう少しオーセンティックなところでは、ロシア文学の名訳者であり、『エフゲニー・オネーギン』の訳をめぐってナボコフと論争を交わしたことでも知られるウォルター・アルントの英訳がある。

What if life deceives and baits you,
Never bridle, never grieve!
Bide the dismal day, believe
That a day of joy awaits you.
By the future lives the heart;
And if dreary be the present,
All is fleeting, will depart,
And departed, will be pleasant.

やはり、いずれも光の要素は見当たらない。となるといよいよこれはケン・リュウ、あるいは詩の露英訳を行ったアナトーリ・ベリロフスキーの意図に基づく改変とみるべきだろう。

仮にベリロフスキーのアイデアだったとしても、その改変部分を英訳のタイトル(”What Has Passed Shall in Kinder Light Appear”)にわざわざ持ってきているわけだから、リュウが何も意識していなかったとは考えにくい。

***

便宜的に問題の光を「謎の光」と呼称しよう。これまで見てきた中で疑問点は2つ。その1、謎の光の正体は何なのか。その2、英訳者たちはなぜ謎の光を詩に混入させたのか。

第1の疑問の仮説はこうだ。「金色昔日」の物語冒頭、世界をこの世ならざる光、黙示録的な光が照らす。つまり、この光が詩の中にも射し込んでいるのである。以上。QED。

……と、これだけ書いてもまったく意味不明のトンデモ解釈と思われるだろうから、ぜひとも本編を一度お読みの上で改めてご検討いただきたい。

第1の仮説が正しいと仮定すれば、第2の疑問についても見当がつく。引用を物語世界により引きつけ、溶け込ませるために行ったというわけである。単純に共通のモチーフが登場するというだけでなく、改変の効果は内容のニュアンスにも及んでいる。先述の通り、原詩には未来への期待、前進の意志が感じられた。「流れ去るもの」が「なつかしい」のは、明るい未来から振り返って、過ぎ去ったこととして受け止められるからだろう。しかしベリロフスキー訳の謎の光はむしろ夢幻的・涅槃的なイメージを呼び起こす。これはもう原詩とは違う境地といえる。

それにしても、引用を改変してしまうというのはアリなのだろうか? 引用が変わっていたら引用にならないわけだし。もちろん引用の翻訳も訳者の裁量のうちではあるだろうが、少なくとも小心者の筆者などには、原文に元々備わっていない効果を付け加えるのはなかなかの冒険に思える。こうした一見乱暴にも思える芸術上の判断を行えるところが、創作者にして翻訳者たるケン・リュウの翻訳の秘訣なのかもしれない(もちろん原著者との密接なコミュニケーションあってのことだろうが)。

***

邦訳のタイトルについても少しだけ。英訳のタイトルは先述の通り詩の最後のセンテンスから取っているわけだが、日本語ではいささか冗長と判断したのか、英題のニュアンスをいくらか拾いつつも中国語の原題(「大时代」)とも英題とも違う「金色昔日」という独自のタイトルとなっている。金色の過去、ぐらいの意味だろうか。

面白いことに、原文にこのフレーズがそのままの形で登場することがない一方で、同じく中原が訳した陳楸帆『荒潮』にはこのフレーズそのままの名称の、郷愁を呼び覚ます電子ドラッグが登場するようだ(邦訳では「ハルシオンデイズ」となっている)。こちらから拝借してきたのだろうか? 興味は尽きない。

このように重訳という複雑な翻訳過程の裏では、各国語翻訳者たちによる裏の読み合い、丁々発止の駆け引きが繰り広げられているのである。そんな訳者たちの血と涙の結晶、『月の光 現代中国SFアンソロジー』絶賛発売中!

参考文献


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