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価値ある世界

私はかけがえのないものが嫌いだ。「これ」がなきゃ生きていけないとか、「あれ」だけが生きる理由だとか「それ」こそは自分の生まれてきた意味だとかそういう希少価値に腹が立って仕方がない。それがなくなったら自分に価値がなくなるのか?自分のやりたいことはそれだけだったのか?自分の人生はそれだけだったのか?

このようなマインドで生きることができれば世の中の大抵のことには時に落ち込みながらも対処することができるだろう。それが恋人であろうが家族であろうが、時に自分の命であろうが。

私の思想を語ろうか。
「死ぬ」は「生きる」の対義語ではない。「死ぬ」は「生きる」ということに組み込まれた一つの機能にすぎない。息をし、食事をし、恋をし、死ぬ。私は人の「生」に興味があるが、「死」を間近で観察しなければ「生」の全体像は掴めない。しかし「死」を間近で観察しようと完璧な分析などできない、なぜなら己は体験していないし、死を体験した人が死んだ感想を述べることもないからだ。まあつまり私がどれだけ「生」について興味をもち、調べ尽くそうが完璧な理解など得られない。ただただ生きる機能に組み込まれた「死」を待ち、その瞬間に理解する他ない。
 さて、では生きる意味とはなんだろうか。
結論から言うと未だ見つかっていない。見つける気もなければ、あるとも思っていない。なぜなら求める価値のあるものは手に入れた瞬間失うことが約束されていて、苦い生を引き延ばしてまで手に入れたいものなど何もないからだ。
 それではなぜ死なないのか。
単純に怖いからだ。死ぬ時はどれだけの苦痛を受けるのか、死んだ後はどれだけの痛みを耐えなければならないのか。何もわからない。だれも知らない。そんな未知への恐怖の感情がが死ぬのを躊躇わせる。しかし、死ぬことを受け入れてはいる。なぜなら先ほど述べた通り生きるということは死ぬことと同義であるからだ。

 私は奇跡という言葉が嫌いだ。生きているうちに様々な出来事が起こるだろう。嬉しいものも悲しいものも全て偶然に起こり、ある意味必然的に起こる。そんな出来事一つ一つに「不運」だとか「奇跡」だとかすぐ人は言い出す。
それらは全て当たり前であるという前提を忘れている。まるで己の手でその運命を手繰り寄せたとでもいうような傲慢な態度をとる。そんな態度を真似て、あえて「奇跡」という言葉を使うなら

世界は奇跡でできている、概ねどうでもいい奇跡で。


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