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おかたづけ。

「たからものいれ」から出てきたのは、花の形の風車。幼い頃、好きだった近所のお兄さんが夏祭りに買ってくれたものだ。恐らくガーベラを象ったピンク色のそれは、多少色あせて黄ばみ、花弁が二枚、折れ曲がってはいるが、二十年前に露店で購入した安物にしては、保存状態は良いのではないだろうか。
ガーベラを目線の高さに持ち上げ、ふっと息を吹きかける。息の吹きかけ方が悪かったのか、そうじゃないわ、とでも言うように、左右に少し揺れただけだった。もう一度吹きかける。もう一度、首を振る。
手に入れたばかりの頃は、もっと上手く回せたはずだが、暫く触れないうちに回し方を忘れてしまったようだ。もしくは、幼い頃も初めは上手く回せなかったが、何度も繰り返すうちにコツを掴んだのか。いずれにせよ、風車を回すのは思いのほか難しいということを知った。
「何してんの?」
「片付け」
「それは知ってるよ。いや、片付いてないけど」
「これから片付く」
「どうだか」
しみじみとした雰囲気に水を差してきたのが婚約者だということに、時の流れを感じると同時に、自分もあの時のお兄さんーギンジくんと同じ人生のステージにいることに感慨深さを感じる。
「風車で遊んでる時点で、もう片付かないことは目に見えてる」
ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべながら婚約者ーコウスケが近づいてきて、「たからものいれ」の中を漁り始める。幼稚園の先生が作ってくれた四つ葉のクローバーの栞、帽子を被ったどんぐりで作った人形、鹿児島へ引っ越して行った仲良しだったナツミちゃんがくれた手紙。どれも実用性はないが、漠然とした大切な過去を導き出すトリガーとなり得る品物たち。私以外の人間が見れば、それらはガラクタというカテゴリーに分類されてしまうだろう。そのガラクタたちに存在意義を与え、有意義な物として大切に扱うことが出来るのは、世界でただ一人、私だけなのだ。そう、世界で私だけ、特別な存在にしてくれる。
新居に持っていく物を選ぶために開始した片付けは、気がつけば過去の出来事に浸る儀式となってしまい、コウスケの言う通り、いつまで経っても片付かない。しかし、片付けというのは、あくまでこの私だけの儀式を執り行うためのコウスケに対する名目でしかない。コウスケにとって、片付いていないことはつまり、目的を達成出来ていないということなのだ。しかし、私にとって片付いているか否かは重要ではない。
処分するわけでもなく、全て置いていくこと変わりはないのだから、片付ける必要もないと言うのに、わざわざこの「たからものいれ」を引っ張り出してきたのは、新しい人生の岐路に立つための儀式。過去の自分を過去の存在として、必要になるまでの暫時、眠りに就いて貰うための儀式。
これからの私は、今この瞬間という最も新しい過去を生きていかなければいけない。そこに、過去の過去を混在させるわけにはいかない。
人生のアップデート。
過去を引っ張り出して再び眠らせることは、過去との決別を意味する。嫌な過去はもちろん、私のような、突出した嫌な感情を伴わない平々凡々な過去であっても、それをいつまでも抱えていては、新しい過去を受け入れるキャパシティを確保出来ないのだ。
過去たちは記憶として、きっと一生涯、私の脳内の何処かに住み着き続ける。思い出そうとしなければ出てくることも無いパンドラの箱。蓋には「思い出」というラベルを貼っておこう。
開けても良いが開ける必要も無い。開けたくなったら、ガラクタの中に紛れ込んだ鍵を探し出せば良いだけ。その鍵は実家の押し入れに入っている。私の意識下には、その事実さえ入っていれば良いのだ。
「よし、仕舞おう」
「片付いたの」
「多少」
「どこがだよ」
大切な鍵が壊れないように、そっと「たからものいれ」の中に戻し、コウスケの呆れたような視線を背中に受けつつ、押し入れの中に戻し、そっと襖を閉める。
さよなら思い出。また会いに来るね。

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