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近年のドラマから考える性別役割分業

 私はあまりテレビを見ないが、時々恋愛系ドラマにハマることがある。近年は恋愛系ドラマも侮れず、深い解釈や社会的なメッセージを多分に含んでいるものが多くておもしろいのだ。マンガが原作の作品が増えていることも関連しているかもしれない。

 代表格はなんといっても「逃げるは恥だが役に立つ」であろう。契約結婚自体もインパクトが強いが、専業主婦を「職業」として年収換算する考え方や、妻に家事を強いることなどを表現する「好きの搾取」という言葉など、世の中の考え方に新しい角度の視点を与えた。

 最近放送している「私の家政夫ナギサさん」もインパクトの強いドラマである。
 一般的に女性のイメージが強いハウスキーパーの仕事を中年男性がやり、顧客が働く独身女性であるという、一般の男女のイメージから逆転した構造になっている。「主夫」という言葉と同じように「家政夫」という言葉を創り出しているところにもその思想が表れている。
 家政夫であるナギサさんは、自分が家政夫という仕事を選んだ理由を「私はお母さんになりたかったんです」と語るところもまた印象的である。

 同様に性別役割分業の考え方に疑問を投げかけているのが「凪のお暇」である。
 主人公の凪は都内でOLとして働いていたが、仕事でも彼氏の前でも空気を読むこと・おしとやかな女性を演じることに疲れ、全てをリセットし新しい生活を送る。
 彼女はスナックで働きはじめるが、オネエのママから「凪ボーイ」と呼ばれる。凪自身が女性性を拒んでいる象徴でもあるが、ここも(生物学的な)男性がママ、女性がボーイと、一般的な男女の役割が入れ替わった構造になっている。

 一般に性別役割分業の議論では、職業に性別をあてがうのは不適切だという論調が主流であるように思う。「看護婦」が「看護師」、「スチュワーデス」が「キャビンアテンダント」と呼ばれるように変わってきたのもその流れを汲んだものだ。「逃げるは恥だが役に立つ」もこの立場に近いものと推測される。
 確かに社会的には自分の性別と異なるイメージの職業を担うことには、不本意に差別や抵抗を受けるリスクや、本来誇りをもって働くべきにもかかわらず感じずにいられない肩身の狭さのようなものが生じてしまうと考えられるため、当然配慮が必要である。

 しかし「家政夫のナギサさん」、「凪のお暇」が特徴的なのは、職業に与えられた性別のイメージを否定せず、かつ女性のイメージの強い役割を男性が、男性のイメージの強い役割を女性が担っている点である。
 そこでふと思う。全てではないものの、文化的に男性的・女性的イメージと切り離せない職業があってもよいのではないかと。スナックのママには母性的な包容力という意味で「ママ」以外の表現をしたいと思わないし、執事は紳士的イメージから男性的職業でありつづけてよいと思う。
 その上で重要なのは、そうした男性的・女性的イメージを持った職業を異なる性別の人があえて選んだって構わないということである。それも性的指向に関係なく、である。男性がママをしてもいい、家政夫をしてもよい。女性が執事をしてもいい、消防士をしてもいい。自分自身もその職業を誇りをもって選び、周りもそれを尊重する、そんな構図も素敵なのではないか。

 考えてみれば私自身も自分を「サラリーマン」と表現している。なぜなら「OL」というと(偏見を恐れずに言うと)キャリアより自身のライフスタイルを優先する一般職のイメージが強く、かといって「キャリアウーマン」というと仕事に大変意欲的に取り組む女性のイメージがあるためである。(友人からは激務という意味で「キャリアウーマン」扱いされていたが。)
 私は総合職としてある程度仕事に比重を置いた働き方・人生設計をしているものの、バリバリ働きたいというよりはお金のために会社にぶらさがって働いている感覚が近い。なので「サラリーマン」という表現がちょうどよいのだ。今までは「サラリーマン」の女性向けの言葉が欲しい、あるいは「サラリーマン」から男性的イメージがなくなればよい、と考えていたが、これらのドラマを見ていて「私はサラリーマンでもいいんだ」と思えた。

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