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千年先までそうしてろ(願望)

荻原浩の『メリーゴーランド』という小説があって、市役所勤めの主人公が旧態依然のルールに雁字搦めになりながらテーマパーク再建に向けて奮闘する、という話なのだけれど、主人公の憤慨を代弁するような作中作の台詞に「千年先までそうしてろ」というものがあり、それがもはやストーリーの子細な流れを忘れて久しい中で、ずっと心に残り続けているのだった。

委員長こと月ノ美兎がカバーした『1000年生きてる』という曲を聴いたとき、「1000年」という言葉から反射的に「千年先までそうしてろ」というフレーズが引っ張り出されてきたのだけれど、聞こえようによってはこの言葉、なんだか意味が反転しそうだな、と思ってなんだか可笑しかった。

インターネットの一部たらんとする彼女の活動、ひいてはVTuberという文化そのものに対して、願わくば「千年先までそうしていてくれ」、みたいな。


時間が過ぎるのは早いもので、空中に放り投げられた守る必要のない約束を果たすため、もしくは、あからさまな伏線回収を試みようと『異動辞令は音楽隊!』を観てきた。

年齢を重ねると涙腺の緩みがとどまることを知らず、最近はもう何を観ても泣いている気がするけれど、とにかく、音楽を軸にした再起を描く物語がしっかりと刺さって、思い出してはじんわりと泣きそうになっている。

何はなくとも阿部寛。阿部寛というだけで、左遷の憂き目に遭う旧時代のパワハラ刑事が悪い人間だと思えなくなってしまっている。刑事課の連中から一斉に冷たい目を向けられるあのいたたまれなさといったら。娘とすれ違い続けるタイミングの悪さも、警察手帳を置き忘れて自分を責めるやるせなさもしっかりとつらい。もともと高齢者を狙った事件を追っているところや、高齢の母や高齢の音楽隊のファンの存在といった具合に、作品を覆う要素の上半分がやけに現実的なテイストの重みを与えてくる。認知症介護のつらさを上乗せしないでくれ。阿部寛がドラムを真剣に練習しているだけで泣ける。実際に上手くなっているから。最初と最後の熟練度の違いを見てくれ。吹き替えではない生の努力だそうだ。音楽を主題に据えた物語は音楽で全てがうまくいく。やはり音楽。音楽は全てを解決する。そんなわけないけれど。そうであってもいいとは思う。人間は、特に人生の後半に差し掛かった人間は、そう簡単に変われるものだろうか。セッション。人とまともな関わり方のできなかった不器用な男が手にした手段がセッションというつながりであったというのが、変化の説得力を下から支えている。変わったところで、それまでの行いがすべて許されるのだろうか。『惑星のさみだれ』を読んだとき、雨宮夕日の祖父を許す気持ちにはあまりなれなかったけれど、阿部寛側の視点に立ってしまっているので、「許されてくれよ、頼むから」という気持ちになっていた。この作品はオリジナルの企画であり、監督のインタビューなんかを読むと、意外と根っこは私とそう変わらない興味から出発しているようで、そこも妙に縁がある気がする。そういう意味では警察の音楽隊というものの在り方を見ることができたし、改めて演奏の場に遭遇したときは、思い入れが数段違っていそうな感じがする。

たとえ警察であろうとも「上手くなりたい」のだ。

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