ロジスティクスの思い出

日本語で兵站とも訳される、軍事用語のロジスティクスは、しばしば物流と同一視されがちだが、どうやらもうちょっと広い概念らしい。

湯浅和夫2009『物流とロジスティクスの基本 この1冊ですべてわかる』日本実業出版社

実は私の父母の家業は、青果仲卸売業である。そして祖父母の仕事は、昭和の田舎によくあった野菜、肉、煙草、塩、乾物、魚、菓子、雑誌、文具等を全部扱う小規模総合小売業であった。私は12歳ぐらいまで、その店舗兼住居(やおしん)で生活していた。

父母は私が6歳の時に独立して起業したが、祖父母は小売店舗をそのまま経営しつづけた。父母が流通、祖父母が販売、という他領域で仕事をしている姿を小学生からずっと見続けた。

小規模総合小売業の店舗兼住所で生活すると何が起こるか。まず、店の手伝いをすることになる。小学生がレジにたつ。倉庫から商品を出して店舗に並べる、自販機に入れる、煙草を売る。徒歩圏内に鉄工所があり、夕方になると真っ黒なかおをした労働者のおっちゃんがワンカップで店で飲み始める。おっちゃんたちがもっている保温機能付きの縦型のお弁当箱にいまでも憧れてしまうのは、この経験が大きい。あれはほんとうにかっこよかった。

そんな環境で毎日過ごしていると、店のどこに何があるか、何が売れるか、足りない商品は何か、子どもで何となく分かる。

もちろん、生産も流通も別の業者がやっているので、祖父母がやってたのは仕入れ−販売のみだった。祖父は8年前、祖母は昨年他界した。私にとっては大切な祖父母だったが、商売人としてのセンスは凡人以下だったと思う。

子ども心に残っているエピソードをいくつか。

肉は「豚金」さん、という屋号の精肉店からその日の朝に電話がかかってくる。おそらく当時50代ぐらいの祖母はなにもみずに、「コマを…3パック」「モモを5パック」…と電話で返していた。昨日何がいくら売れたか、この1週間の売上とロスはいくつかを80年代のアナログ時代に把握していたとは到底思えない。いたずらごころで、祖母の注文をメモして、1ヶ月ほど記録をとってみた。小学校で平均値、という考えを教えてもらって1週間の仕入れー売上ーロス、を調べて、「ああ、今日は幾つロスが出るな」と予測して、9時頃の閉店後にそれを見てニヤニヤする、意地の悪い小学生であった。

パンは「ヤマザキパン」さんに納入してもらっていた。菓子パンには今でもそうだが、「消費期限」というのがしっかりと刻印されている。店舗における期間は商品ごとに違う。そして売上のペースも違う。5個仕入れて1日でなくなってしまう商品もあれば、3つ仕入れても1週間たっても残っている商品もある。それでも、祖母の発注の仕方はいつも同じで、売れる商品も売れない商品も同じように発注していた。そして消費期限の切れた商品も平気で店頭に残し続けた。小学校で「お前の店は消費期限切れのパンを売っている」と言われ続けるのが嫌で、こっそり私が閉店後にロスを引いて捨てていた。POSもない時代だったので、店頭在庫もロスも欠品もほとんど管理していなかったと思う。

カップラーメン、袋麺などは30個、50個という単位で箱で納入される。もちろんパンに比べれば日持ちがするので、在庫、という考えが成立する。店舗の倉庫は、店舗から100メートルほど離れたところにあり、私の遊び場兼隠れ家になっていた。そこからカップラーメンやペットボトル、缶コーヒーなどを台車に載せて店舗まで運ぶ、というお手伝いをしていた記憶がある。Aという商品とBという商品の売れるペースは明らかに異なっていた。同じように店舗に30個ならべても、Aの商品は1週間でなくなる。Bの商品は1ヶ月たってもまだ残っていた。通常の商売人なら、Aという商品の仕入れを増やしてBという商品の売り場スペースを削る。しかし、祖父母はそれをせずに、在庫が潤沢なBの商品で売り場を占拠した。

子どもから見ても、ほしい商品があまりない店だった。

それでも、田舎にも奇跡は起こる。「ビックリマンチョコ」のブームは我が店舗にも訪れた。子どもがほしいのはお菓子よりもシールだったが、人気の商品だったので、店舗に入ってくるのは1ヶ月に一度か二度だった。納入された商品は、バックヤードに置かれていたので、私には入荷は一目瞭然だった。最初からか、途中からかはわからないが、ロッテは、ビックリマンチョコ単体での仕入れをしてくれなくなった。他のロッテ製のお菓子と同じダンボールに入って、まとめて「ロッテお菓子」として納品されていた。いわゆる「抱き合わせ」販売である。ビックリマンチョコは店舗に出すとその日のうちに完売する。しかし、抱き合わせの商品はそれほどうれないので、バックヤードに積み上がっていく。それを嫌った祖母は、ビックリマンチョコそのもの仕入れペースを落とした。こうして、また売れない商品に売り場が占められるようになっていった。

それでも、競争相手がいなければ、これでも商売が成り立っていたのが昭和の日本である。1990年代にはいって、車で10分のところにスーパーマーケットができてからは、徒歩生活者以外はだれも来なくなった。駐車場もなかったし。ちょうどその頃、祖父母は相次いで脳血管性の疾患で倒れ、身体に麻痺が残った。店舗をたたむのには良いタイミングだったのではないかと中学生だった私は思った。

父親の経営する仲卸売業はみるみる業績を伸ばしたし、父母乗る車のグレードはどんどん上がっていた。ちょうど市の区画整理に引っかかって、新しい家(現在の実家)に建て替えられた。世間ではバブル経済がピークを迎え、私は中学校を卒業する年頃になっていた。

今でも、私が実家に戻って愛犬や娘と歩いていると昔なじみのおじちゃんおばちゃんが声をかけてくれるが、私は今でも「やおしんのなるちゃん」と呼ばれるのだ。来年40のおじさんにそれもないだろうと思うが、みなさんの頭に中にあるのは、やおしんのレジに立って会計をする小学生の私であろう。

高校生になった私は、父の会社で冬休みの短い間だけアルバイトするようになるのだが…それはまた別の話。


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