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「メタ・ノーティングの「構造」」と「メモワール法」について

〇外山滋比古「思考の整理学」より、

「メタ・ノート」を読んで、

○手帖に書かれた、ただの「アイデア・メモ」から出発して

情報を書く「場(?)」、つまり外山のいう「コンテクスト」をいろいろと変えながら

アイデアを発展させて、完成原稿に昇華させてゆくプロセスを

外山は「メタ・ノート」と呼んでいる。

わたしもまた、この「メタ・ノート」の作業をわたしなりにしていると感じる。

それについて少し書いてみたい。

わたしの場合は、「メモワール」という作業を毎日かなりたくさんしている。

それは「特有の文体での文章の作業」あるいは「不完全な文章体で書くことの実践」で

ここでわたしはさまざまな考えや思いを、とりあえず自分なりに「言語化」していて、

自問自答の「思考」のプロセスを、この「メモワール」という「コンテクスト」で行なっている。

生活の一環として日常的にしている行為だ。

わたしはこれを「メモワール法」とよんでいる。

これはわたしの独自性だと思う。

ほかの人々もだいたい似たようなことをしているのかもしれないが、

わたしの場合は、「メモワール」と呼び、これをはっきり意識的にしている。

道具はだいたい、iPadやスマホ、パソコンなどのデジタル媒体を使っているが

意識して、アナログの手書きの方法を使うこともある。

書く媒体の質感が内容に影響するからだ。

文章の場合には、なにはさておき「具体化」が重要で、

とりあえず一回、ある程度具体化しないと価値や意味が自分でもよくわからず

「具体化」の第一歩としての「メモワール」には大きな意義があると感じている。

そしてこういう「メモワール」は、わたしの場合、なかなか「原稿」としては、きちんとした文章の形にならなかったが、

ある時期、

「ブログ原稿」を書くようになってから、「完成化」、「原稿化」の技術がかなりすすんだ。

自分の考えをわかりやすい散文で書けるようになった。

状況によって、「メモワール」、「仮原稿」、「印刷原稿」と

「コンテクスト」をさまざまに替えながら、だんだん文章を整えてゆく。

完成したと判断した文章は「ブログ」などのメディアを使って「公開」している。

また、わたしは書簡やメールの原稿などもこういう方法で書いている。

また、完成された状態でも、「公開」までは行かない文章、

つまり「社会的説得力」を充分に持たない文章もかなりある。

これを「草稿、雑案」と呼んでいるが、なにかの欠陥や支障のある原稿群だ。

「メモワール」や「草稿、雑案」は原則非公開にするのが妥当だと思う。

また「わたし自身にとっての真実」を、

自分なりに、ある程度はっきりさせたい場合もある。

そういう時もわたしはこれを「メモワール」や「原稿」にするが、

そういう、いわば「プライベート・ドキュメント」とでもいうべき文章もある。

当然そういうものも非公開原稿になる。

さまざまの複雑な「メタ・ノート」のプロセスを経て

一本の公開原稿が生まれる。

その周囲には、非常に多くの「捨て情報」があるのも事実だ。

ほとんど無駄であるように見えても、この「捨て情報」は、重要だと思う。

なぜならそれは、文章の形で現された、わたしの「現実認識」の形そのものだからだ。

大袈裟にいうと「わたしの思想の営みの生きた姿」がおそらくそこにはあるだろう。

そして、こういう作業全体を、外山の言葉から応用して「メタ・ノーティングの構造」と呼ぶのはごく自然な結論だろう。

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参考「思考の整理学」

外山滋比古、著

ちくま文庫、1986年

520円 プラス 税

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