わたしなりの「メタ・メディア」序論
わたしなりの「メタ・メディア」序論
2023年3月14日(火)
いま、「アラン・ケイ」の論文集を和訳で読んでいます。
それで、なにが書けるのかとふと思い
コンピュータに向かっているところです。
ちょっとずつ手を入れているのですが、
だんだん読みづらい文章になってきて
悪戦苦闘しています。
どうかよろしくお付き合いください。
「アラン・ケイ」を知らない人のためにいうと
「パーソナル・コンピュータの父」と言われている人です。
〇
そもそもの、きっかけですが、
「小学生からはじめる わくわくプログラミング」
という電子書籍、
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「小学生からはじめる わくわくプログラミング」
電子書籍データ作成日、2014年3月7日、第1版
阿部和広 著
今時点の価格が、
Amazonで、2,090円です。
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というものの中にある、
〇「すべての子供たちへ!」という文章、
〇「すべての年齢の「子供たち」のためのパーソナルコンピュータ」
という、すごく細かい字で組んである文章を、
でっかいiPadで、文字を拡大しながら読んだ体験の印象、
これがまずありました。
ちょっと大変な作業でしたが、
興味のある方はごらんになるとよいです。
ここで、強く惹かれるものがあり、
「アラン・ケイ」という論文集に読み進みました。
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「アラン・ケイ」
著者、アラン・C・ケイ
翻訳、鶴岡雄二
監修、浜野保樹、
アスキー出版局
(1992年)
定価2,400円プラス、税
わたしは古本を、Amazonで、6,390円で購入しました。
手に入りづらい状況のようです。
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これははっきり高価で、
「誰にでもおすすめ」というような、実益的な本ではありませんが、
興味深いアンソロジーです。
大雑把にいって、
アラン・ケイや、その周辺の人々が、
「パーソナル・コンピュータ」という概念を作りあげ、
また、技術的、現実的に実装し、
また、それを後生の人々が、応用、普及させたといえるようで、
それが大まかにいって、現在のような「パソコン」や「iPad」です。
「パーソナル・コンピュータ」について考えるには
古典的文献といっていいかと思います。
知識として、また技術としては、コンピュータは「パーソナル」になりましたが
それを扱ううえでの「智慧」や「叡智」については、
これからの世代の課題だとわたしは感じます。
つまり「理想のパーソナル・コンピュータ」はだいたいできていて、
「理想の使いかた」がいま、要求されているのではないかと思います。
〇
いま、わたしは「メタ・メディア」という彼のアイデアに注目していて、
(「パーソナル・ダイナミック・メディア」です。)
個人が個人のためにもつ、個人によるデーターベース、
という営みには大きな意義があると感じます。
それで、これをいま、ちょっとずつやっているところです。
ここのところ、わたしがちょくちょくレポートしている「マルチメディア・データーベース」
とは要するに、つまりそれですが、
ここで「ダイナミック」とか「アクティブ」といっていいような
動的で、積極的で、「相互触発的」なプロセスが欠けていたとはっきり感じます。
それで、
「作りながら読む(読みながら作る)、マルチメディアのデーターベース」
というような形で、
改めて「わたしなりの「メタ・メディア」」を実験しているところです。
それは基本的に「記録という技術」の応用で、
自己対話であり、自分なりに考えることです。
パーソナルなコンピュータは普及していて、
これを本来の「パーソナル」な目的
自己目的による、いわゆる「知的自転車」として扱うもので、
こういうものが
わたしなりに考えてみた「メタ・メディア」です。
〇
具体的なことを少し書きます。
参考になるとよいです。
わたしは主に、iPadで「データーベース」を作っていますが、
現時点では、データーベースをマルチメディアで十分に扱えるソフトウェアやアプリが、
いまのところない段階で、
テキストベースでは、「Bear」を使い
また、「Notion」でも、実験をしています。
「Bear」 は「タグ」しか、テキストとテキストをつなぐ要素がありませんが、
複数のタグをひとつのテキストにつけるなどで、
複雑なリンクを、シンプルに構成できます。
そういう部分に強い魅力を感じています。
また、利用が比較的安価なのもいい点で、
買い切りではないのですが、
サブスクリプションで、一ヶ月 150円です。
〇
そして「子供たちのための」という形容のなかでは、おそらく、
積極的、意志的に、ものごとを思いえがき、作りあげ、切り拓く、という
「アクティブ」な要素を、
アラン・ケイは、わたしたちに、強く求めていて、
次世代の「メタ・メディア」を構築するのは、
わたしも、そのような「パーソナル」で、「わたしなり」の存在たちだろうと感じています。
ここで、人々はもう一度「記録」という強い武器を使って、
「からだ」とか「感覚」とか「食文化」いうような
あたりまえの「質的リアリティ」を
別の視野から、新たに見つめ、感じ、考えなおせるのかもしれません。
これは、そういうことをいろいろ教えてくれる、豊かな本でした。
わたしもこの散文を書きながらだんだんわかってきたことを、
毎日の稽古に採用してみたいと思います。
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