母の日ですね。何もしない無愛想な私ですが、お母さんに感謝をこそっと込めて、エジプトの代表的な母神をご紹介したいと思います。母性を司る神はエジプトにたくさんありました。母性というより、もう少し広義の女性性と表現した方がよいかもしれません。特に人気があったのはハトホル、イシス、セクメトの三神でした。
もっとも古くから信仰されていたのは、愛の女神ハトホルです。雌牛がその化身とされ、頭上に角が載ったり(下図左)、牛の耳を持ったり(下図右)する場合もあります。そのような姿は、先王朝時代と呼ばれる非常に古い時代(紀元前3100年以前)の出土品に意匠として登場することから、土着的で先史的な信仰が伺えます。主な信仰中心地はデンデラで、とても立派で美しい神殿が現存しています。カイロとルクソールの間に位置しますが、急ぎ足の観光客がこの地を訪れることはあまりないように思います。この神殿は屋上まで良好に保存されていて、登ることができます。また、神殿背面にあの有名なクレオパトラ(7世)の肖像が残ることでも有名です。
雌牛そのものとしてハトホルは、王に乳を与える姿で登場することもあります。古くから王権と密接な関係がある一方、民衆宗教における人気も絶大で、呪術的な信仰対象でもありました。例えば、ルクソール西岸のデール・エル=バハリには、名高い巡礼地が存在し、様々な奉納品や請願文などがたくさん発見されています。中でも、もっとも興味深いのが、パバサという男性下級神官が残した墨書の落書きです(Graffito DB 6)。そこには「叶えてください。叶えてください、ハトホルよ。(中略)どんな男性にも女性にも愛されますように。どんな女性に対しても強いペニスをください。(中略)伴侶となる善い妻をお与えください」という赤裸々な願いが残っています。このようにハトホルは、女性性のうち、愛、豊穣、美、官能性といった性的なイメージで語られます。
これに対し、イシスはオンナというより、母を具現化した存在でした。神話では、夫であるオシリスが殺されたとき、彼女はバラバラにされた遺体を懸命に探し求めました。また、唯一の子ホルスを王位に就けるべく献身的に支えます。まさに良妻賢母です。彼女は頭上に玉座を載せた姿で登場します。特に愛好されたのが、膝に幼いホルスを座らせて母乳を与える慈愛深い様子です。イシスの信仰はローマ帝国にも及び、キリスト教化する前のローマにはイシスの神殿が建てられたほどです。そんなわけで、地中海世界に及んだ影響が、最終的にイエス・キリストを抱く聖母マリアの原型になったという説もあります。信仰中心地は、ヘリオポリスやフィラエでした。ハトホルと同様に雌牛を化身としたようで、ギリシャ人のヘロドトス(紀元前5世紀)は、「雌牛はイシスの聖獣であるので、これを屠ることは許されない。(中略)エジプト人は誰でも雌牛をどの家畜とも比較にならぬほど大切に崇めている」と述べています(『歴史』第二巻、41)。
一方、ライオンの頭を持つセクメトは、怒りや力を象徴しました。セクメトという名は「支配者」を意味します。メンフィスの主神プタハの妻神でもありました。『人間殺戮』という神話には、地上で傲慢に振る舞い始めた人間を戒めるために、太陽神ラーがハトホルを遣わしたと伝わります。ところが、ハトホルは途中で豹変してセクメトになり、人間の血を求めて暴れました。そこで、赤く染めた大量のビールで世界を満たしてセクメトの怒りを鎮めることにしたとあります。愛の女神と怒りの女神は地続きに描かれるわけです。
このような言説に付きまとうのは、女性が持つ慈愛と狂気の二面性です。でも、女性だけがヒステリックだと言わんばかりの主張には少し戸惑います。同様の文脈で、月経を不浄と見做すのも古来から幅を利かせてきました。男性だって、嫉妬深い難しい人がたくさんいます。だから、ここではあえてこう説明しましょう。女性が持つ優しさや柔らかさはやはり、普遍的なのだろうと思います。愛の形はもちろん様々ですが、母と子を繋げる愛以上に強固なものはないかもしれません。そして、愛は怒りと対比させた方が劇的に演出できます。女性は愛情深いゆえに、狂気まで一緒に背負わされる運命なのだという気がします。セクメトはそれを担う寛大な女神なのかもしれません。
皆さんのお母さんやお婆さんはどんな女性ですか?どんなところが大好きですか?それを伝えていますか?そう言いながら、私は母に気持ちを素直に伝えられません。どうしても「感謝してます」とか「元気でいて欲しい」などの使い古しの表現になってしまいます。祖母の墓前でさえ。I love youのように気軽に言えたら、相手も自分もどんなにか気持ちよく過ごせるだろうに。
エジプトの神々については、白水社から出版された『神の文化史事典』(2013年)の古代エジプトの項を私が担当し、詳しく述べています。もしご興味あれば、ぜひご覧くださいね。
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