今日という日は誰かの生きたくても生きれなかった日

同じ学校の知らない子が死んだらしい。

冬休みが終わり、今日は始業式。

久々に会う友達と寒い寒いと言いながら体育館へ向かう。
全校生徒がぞろぞろと歩き体育館が少しずつ満帆になっていく。それと同時にざわつきが大きくなっていく。

友達と茶番をして笑っていた私はふと、前の方に生徒指導部長の先生が立っているのが見えた。

「あ、やべ」

私のその一言を皮切りに友達は一斉に静かになり、その静けさが波紋のように体育館全体に広がった。

そして始業式が始まる。

「起立。礼。着席。」
「これより第何十何回、始業式を始める。」
「起立。礼。着席。」
「校歌斉唱」
「起立。礼。」

この起立と着席の細かさにいつももどかしさを感じる。
一気にやれよ。いちいち座らせるなよ。

そんなことを思っていると校歌が終わり、次は校長の挨拶だ。

私は校長という生き物で面白い話をしている種類を見たことが無い。
もちろんこの校長も変異型ではない。ただの校長。つまり話が長くて面白くない。

そんなことを思われてるとも知らず校長は話し始めた。

「えぇー、皆さんおはようございます。年が明けて1回目の全校集会ですが、一つ、悲しいお知らせがあります。」

私は思わず顔を上げた。
そんな出だしで入る話題はドラマでしか聞いたことがない。

「去年の12月の27日に、ですね、ぇぇ、3年B組の、山城泰雅くんが亡くなられました。」

えっ?

同じ3年生の子だった。
だが私とコースが違うその子のことは顔も名前も知らなかった。

「自宅で勉強をしていたところ、突然倒れて救急搬送されましたが、病院で死亡が確認されました。ぇぇ、心不全でした。ぇぇ、12月末に、ですね、ぇぇ、お通夜と告別式も行ったんですが、、、、、、」

「彼は非常に成績も優秀で、○○大学への進学ももう決まっていたので、ぇぇ、とても急な出来事に、、、、、、」

まるでテンプレのような話を語っていく校長の声が、スルスルと滑らかに耳をすり抜けていく。

私は人1人が死んでいるというのにあまりに唐突に、淡々と進んでいく話にただ呆然としていた。

「では、山城くんのために1分間の黙祷をしましょう。
黙祷。」

私は目を閉じて考えた

え、人が死んだ話ってこんなに唐突にするものなのか。
この学校で初めにその情報を知った人はどうやって知らされたのだろうか。こんなふうに唐突に言われるものなのか。
、、、どうか安らかに眠ってくれ山城くん。

そして目を開けると校長が言った

「今日を生きれなかった山城くんのためにも、皆さんは精一杯これからを生きていってください」


私はこの類の言葉が嫌いだった。
「今日という日は誰かが生きたくても生きれなかった1日だ」とか。
いや知るかよ。
今日という日は、そりゃ誰かが死んだだろうし、逆に誰かが生まれたおめでたい日でもあるだろ。てか生きたくないのに死ねない人もいるのになんて無責任なことを言うんだ。と思っていた。

ただこの時の校長の言葉は何か違った。

同じ学校で、同じ学年の子で、同じ18歳で、来年からキラキラキャンパスライフを送るはずだった同じ高3だからか、とてつもなく可哀想だと思った。

そしてとてつもなく生きる力が湧いてきた。

今日も明日も昨日も、山城くんは生きれなかった。なのに生きてる私は何をしてたんだこの馬鹿野郎!もっとやる事があっただろう!!
と全力で後悔した。

全く知らない人の死はなんの活力にもならないけど、少しだけ共通点のある人の死は私に虚しさと生きる力を与えてくれた。

ほとんど知らない山城くんのために、私はこれから精一杯生きるぞ。安心してくれ山城くん。

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