掌編小説「鴉」(阿波しらさぎ文学賞落選)


 

 
 ぼくが徳島の高校に通っていた十六の冬のことは、今でもはっきりと覚えている。
 寒さも深まってきた十二月のある日、ぼくはいつものように遅刻ぎりぎりに校門をくぐりぬけ、何事もないような顔で教室に滑り込んだ。まだチャイムは鳴っていない。セーフ。ぼくの席は窓側の後ろから二番目にあった。ぼくはいつもそこから校庭の様子を眺めていた。よく白鷺しらさぎがコンクリートの支柱に止まってはまたどこかへ飛んで行くのが見えた(西陽を受けて羽ばたくその姿は特に優雅で美しかった)。おそらく近くの城山に巣を作っているのだろう。席に着くとすぐにチャイムが鳴って先生が入ってきた。いつもそうだ。こう見えて一度も遅刻はしたことがない。
 この日は二学期の期末テストで、なんとなく教室に緊張感が漂っていた。みんな席に着いて教科書やらノートなんかを熱心に見つめている。いつもはうるさい連中が静かにしている。ぼくはその緊張感が好きだった。というのも、ぼくはそもそも試験が好きなのだ。勉強は昔から得意な方で、授業さえちゃんと受けていれば良い点数が取れた。だいたいいつも学年では十位以内には入った。この日のテストもいつも通りできた方だと思う。一日目は理系科目が多かったので特に苦労はない。いつも文系科目のほうに手を焼いた。
 期末テストの期間はだいたい午前中に学校から帰ることができたので、ぼくはこの日、学校の近くの城山の麓ふもとにある食堂で友達何人かと昼ご飯を食べた。その食堂にはテスト期間になると同じ高校の生徒が集まった。平日はもともと混んでいる場所ではないので、特に迷惑になっているわけではなさそうだった。ぼくらはそこで心おきなく美味うまい飯を食べ、勉強をし、他愛たわいもない話をした。
 夕方前にぼくらは食堂の前で別れた。ぼくだけ電車通学だったので一人で電車に乗って帰った。そこまではいつもと同じだった。しかしこの日は、いつものように自宅の最寄りである鮎喰あくい駅(中学の頃に両親が離婚し、高校に上がるタイミングで引っ越してきた母親の実家がその駅の近くにあった)で電車を降りると、駅のホームのベンチに黒いハットをかぶった黒いコートの男性が座っていた。はじめて見かける人だった。年齢は四、五十代くらいだろうか。まるでマグリットの絵に出てくるベルギーの紳士みたいな恰好かっこうだった。心なしかその顔にはどこか父親の面影を感じた(でもこの男がぼくの父親であるわけはない。彼は今も東京で暮らしているはずだし、それにこんな恰好はしない)。電車が来ても乗ろうとする気配はなかった。次の日にも男はそこに座っていた。ぼくが見た時間は前の日とは微妙に違うけれど、ほぼ同じ時間に同じ場所で同じ恰好をしていた。あまり人のいないその場所では彼はとても目立った。よく見ると何かの文庫本を読んでいる。誰かを待っているという気配もない。まあいい、そういうことってある。得体の知れない人。ぼくはそのまま駅の階段を下りて家に帰った。
 テストの返却が終わって冬休みに入るまで、男は毎日そこに座っていた。どのくらいの時間座っているのだろう? 別に誰も彼のことを気に留めている様子はなかったので、ぼくにしか見えていないのだろうかとも思ったけれど、風が吹けばコートは靡いたし、靴を地面に擦る音だって聞こえた。冬休みに入るとその駅も利用しなくなったので彼がその間どうしていたかは知らないが、年が明けて三学期に入ると彼の姿はもう見なくなった。
 
 三学期に入って割とすぐにぼくは左足首を骨折した。自宅で屋根の雪かきをしている時に、雪で見えなくなっていた屋根の端から足を滑らせたのだ。十分に気を付けていれば落ちることはなかったはずだ。幸いそれほど高い屋根ではなかったので大事には至らず、入院することはなかったが、しばらくの間松葉まつば杖づえで生活しなければならなくなった。
「足、いけるん?」とガールフレンドはぼくの足を見て言った。彼女は徳島で生まれ育ったので、基本的には阿波弁を喋った。標準語しか話さないぼくはこの街では少数派みたいだ。
「まあ、松葉杖で歩くのは大変だけど、べつにもう痛くないし」とぼくは言った。今日は彼女と放課後にデートをする予定でいた。
 昼休みにはだいたい彼女と昼ご飯を食べた。弁当を食べながら今日どうするのかを話していた。
「うちんく来る? ほら、あんまり歩くのもしんだいでしょ?」
「しんだい?」
「疲れるでしょってこと」
「ああ、まあね」。まだそんなに方言には慣れない。「でもそういえば君の家行ったことなかったね」
「教えてほしいところもあるけん」と彼女は言った。
「勉強以外はちょっと」
「勉強に決まってるでしょ」、彼女はそう言ってギプスをしたぼくの左足を叩いた。校庭のネットの支柱に止まった白鷺は、首を伸ばしたまま微動だにしない。
 松葉杖になってから、いつもより早めの電車に乗らないと間に合わなかったので、そのために遅刻ギリギリに教室に滑り込むということはなくなった。ぼくはチャイムが鳴るだいぶ前に教室に着いて、暇つぶしに本を読んだ。短編小説がぼくは好きだった。というか、教室で読むには短ければ短いほどよかった。彼女は読書家で、いろんな本を読んでいた。ぼくはときどきそれを借りたりもした。
「そういえば、どんな本があるか見てみたい」とぼくは言った。
「ええよ。私の部屋にはほんとうに沢山の本があるけんね」
 
 彼女の部屋にはほんとうに沢山の本があった。壁一面の本棚はすべて埋まり、部屋には机とベッドと本棚以外は何もなかった。部屋の真ん中に小さいテーブルが置かれているだけで、全体的に無機質な印象を与えた。装飾品といえるものもひとつもない。それでもやはり女の子の部屋なので、ぼくは緊張しないわけにはいかなかった。彼女は座布団に座り、ぼくはギプスをしていたのでベッドに座って宿題をやった。彼女がわからないところはぼくが教えながら進めて行った。彼女は数学が苦手で、ぼくは数学が得意だった。教えるのは好きだし、彼女も呑み込みが早かったので、宿題はスムーズに終わった。そうすると他にすることもなく、ぼくは彼女の本棚を見させてもらった。実に色々な種類の本があった。
「ほとんど祖父が持っていたものなの」と彼女は言った。「私が小学生の時に死んでもうたんやけど、その時に祖母が全部私にくれるって言うて。私、昔から本読むの好きじゃったけん」
 聞いたことのない(少なくともぼくは、ということだ)作家の本もたくさんあった。ぼくも本は読む方だけど、とてもじゃないけど彼女の祖父とは比べ物にならないみたいだ。松葉杖に体重を預けながら適当な本をいくつか手に取ってパラパラとめくってみた。海野うんの十三じゅうざのSF小説(だいぶ古いようで、紙は変色していた)や村上龍の芥川賞作品(これは読んだことがある)、海外のハードボイルド小説から司馬遼太郎の歴史小説まで実に様々なジャンルの本が並んでいた。ほとんどが小説のようだ。部屋の無機質さとは裏腹に、本棚には人間的な奥深い世界が広がっていた。
「君は全部読んだの?」
「ううん、半分読んだか読んでないか。私も意外と忙しいけん」
ふうん、とぼくは言った。ぼくに彼女の忙しさについて口をはさむ筋合いはない。
「どれでもかんまんけん、好きなのを持って行って」と彼女は言った。
「いいの?」とぼくは言った。「ありがとう」
「ねえ、写真撮らん?」、そう言って彼女はケータイのカメラを起動させた。「ほら、ベッドに座って。今日髪型決まってるけん、私」
 ぼくはベッドに座って松葉杖を脇に置いた。隣に彼女も座って、ぼくに身体を密着させた。みんな何かあれば自撮りをした。そういう時代なのだ。「はい、チーズ」と言って彼女はシャッターを切った。その時、瞬間的にぼくの頭に浮かんだのは、駅のホームにいた黒いコートを着た男だった。どうして急に彼のことが思い浮かんだのだろう。すぐ隣にガールフレンドが体を寄せているのに、なぜかぼくの意識の隙間入り込んできたのはあの謎めいた男の姿だった。写真に写ったピースをしているぼくの目はカメラのレンズを見ているようで、実際のところはあの文庫本を読んでいる謎の男を見ていたのだ。そう思うとなんだか複雑な気持ちになった。
「よく撮れてる」とぼくのガールフレンドは満足そうに言った。つまり、そういうことなのだ。
「そうかな」とぼくは言った。
「早く治るといいわね」
「え?」、一瞬彼女が何のことを言っているのかわからなかった。
「その足よ」
「ああ、そうだね。早く前みたいに歩きたい」
「写真送るけん」とぼくのガールフレンドは言った。「見たらきっと早く治るわよ。なんてね」
 
 ぼくは彼女から借りた(返さなくていいと言われたが)本を家に帰ってから読んだ。聞いたこともない名前のロシア人作家の小説だった。はじめからページをめくっていくと、冒頭の前書き部分にこんなことが書いてあった。
 
 ある場合には小説というのは、「細かすぎる記憶の記録」という形をとることになる。たとえば「どうしてそうなったのか、今となっては……」のような表現が、それが記憶の記録であることを我々に教えてくれる。
 正直に言って、私は記憶力が良い方ではない。ことエピソードに関して言えば、ほとんど覚えていないと言っても過言ではない。私の頭の記憶装置は物事を断片的にしか記憶できないみたいで、たとえばそれは二、三秒の短い動画だったり、あるいは匂いだったり、多くの場合それは景色だったりする。つまり映像と匂いの部屋が、私の記憶装置のほとんどを占めていると言える。したがって、そのとき誰かがこう言ったとか、そういうのはほとんど覚えていないのである。医学的な用語でいえば視覚優位性と言うらしい。文字や看板、写真や風景なんかはよく覚えているけれど、人が言ったことをあまり覚えられないというのをそう言うみたいだ。
 つまり何が言いたいかというと、ここで私が書いていることは、とてもじゃないけど「記憶の記録」とはい言い難いものである、ということだ。一つ一つの断片をかき集め、細かい部分を埋め、形を合わせていく。そこに風景や匂いを付与させていく。言ってしまえば「記憶を起点とした虚構」である。まあ、小説なんてどれもはじめから虚構だと言ってしまうこともできる。というか、私の書くものははじめからすべて「虚構」である。「これは絵なんですよ、奥さん」とかつてフランスの画家アンリ・マティスが言ったように、「これは小説なんですよ」と私は言いたい。エピソード・トークではないのですよ、と。
 
 小説自体は特に面白いものではなかったけれど、その冒頭の部分がやけに印象に残った。「記憶を起点とした虚構」。ぼくは本を閉じてベッドに寝転ぶと、そのことについてひとしきり考えてみた。記憶がたどり着く場所は必ずしも真実ではない、というのがぼくなりの解釈だった。記憶が虚構にもなり得るし、虚構が記憶にもなり得る。彼は続けてこう書いていた。
 
 そう、そして一度張り付いた虚構はそのうち真実を蝕んでいくかもしれないということを、我々は忘れてはいけないのです。「目の前のものを見よ。大事なことはいつも目の前にあるのです」。とその昔誰かが言っていた。それが誰だったかは忘れてしまった。私はあまり記憶力が良い方ではないのだ。
 
 その月の終わりに、高校の卒業生であるチャットモンチーというガールズ・バンドが母校にサプライズで凱旋ライブをしに来た。もともとファンでよく聴いていたので、もちろんぼくはそのライブを観に行った。『シャングリラ』や『真夜中遊園地』など、ライブで盛り上がる曲を中心とした三十分程のライブだった。終始ライブを夢中になって(松葉杖のことなど忘れて)観ていたけれど、最後の曲が終わる瞬間、まるで集中の糸がふっと切れたように、またぼくの頭の中に黒いコートにハットを被った男が浮かんできた。そうするとしばらく彼の姿が頭から離れない。しかし誰もそんなことには気付かない。それはそうだ。ぼくの中で始まって、そしてぼくの中でしか終えることのできない問題なのだから。目の前の現実から振り落とされぬよう、しっかりとシートベルトを握り締めていなくてはならない。
 
 それからしばらくの間、何かをするたびにあのマグリット的な黒いコートの男の姿が頭に浮かんでくることになった。朝目が覚めた時、寝ようとして目を閉じる時、自分で自分を慰めている時、ガールフレンドと抱き合っている時、彼はそこにいて黒いコートの裾を風に靡かせている。まるで曇天どんてんの空を横切る鴉からすのように、それは不意に窓の向こうに現れてはまたどこかへその姿を消すのだ。ぼくは頭に浮かんだそんな映像を消し去るように、目の前のガールフレンドを強く抱きしめた。
「ねえ、ひとつ訊いてもいいかな」とぼくは彼女の耳元で囁ささやく。
「ええけど、なんじょ?」
「なんていうか……そうだな。君は幸せ?」
「どしたん、急に」と彼女は言う。
「なんでもないよ」とぼくは言う。
 彼女の吐息を肩の辺りに感じる。ぼくは彼女を抱きしめながら、窓の向こうの鴉がどこかへ飛び立っていくのを人知れず待ち続けた。

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