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雑感―「即興ではできない」(大木毅)と「社会の型」について

『独ソ戦』などの論考や赤城毅名義の数多くの小説で著名な大木毅氏から、noteにアップした拙稿「「即興ではできない」―大木 毅『歴史・戦史・現代史―実証主義に依拠して』(2023. KADOKAWA・角川新書)を読む」(2023.8.31)への言及をいただいた(X(旧ツイッター): https://twitter.com/akagitsuyoshi/status/1697186135498522762 。感謝申し上げる。
 
昔から趣味と実益を兼ねてジャズや特に歌舞伎のことを、私が「専門」としている(AIや認知科学を媒介とした)物語論や物語生成論の立場から研究している。そのせいか、「即興」とか「型」とかいう言葉には思わず反応してしまう。
因みに、今まで「専門は何ですか」という質問に対して、いろいろ答えてもほとんど通じなかったが、最近「生成AIのようなもの」と言うと、妙に納得してもらえるようになった。(本当は違うが。)
 
これも因みに、「物語」とか「ナラティブ」とか「ストーリー」といった言葉はある時期―21世紀になった頃?―から世界的にインフレ状態になっているので、いちいち反応することはなくなったが、ロシア・ウクライナ戦争の文脈で出て来ると、反応しがちである。しかし、「フォルマリスト」の本性故か、その内容に対する賛否とは別に、カチンとくることも多い。
「物語」は、肯定的な評価も可能である(例えば「ナラティブセラピー」の場合)。他方否定的な評価も可能である。そもそも人間の認知システムにおいて物語は決定的な存在であるので、それは当然のことである。物語がなくなったら、(少なくとも現生の)人類もなくなる。
しかし、ロシア・ウクライナ戦争の文脈において、日本では多くの場合、物語(ナラティブ)は、「ロシア偽情報」の意味で使用されている。世界に遅れているとはいえ、この用語が使用されるようになって来ていること自体は評価すべきであるが、一面的な使い方である。殊に研究者が使う場合は、きちんと定義すべきである。おそらく、「物語」という極めて日常的な用語であるので、定義するまでもない、と思わせてしまう所が、落とし穴なのであろう。
因みに私の場合、物語=大体narrativeと重なる意味で使っており、ストーリー(story)やプロット(plot)や物語言説(narrative discourse)などの言葉は、物語に含まれる意味あるいはその一側面として、使用している。(物語論・ナラトロジー(narratology)における「物語」であるが、20世紀までは、広義には物語(narrative)の学であり、狭義には物語言説(narrative discourse)の学であった。21世紀にはより広がっている。但し、日本ではこのより広がった物語論の体系的記述を、玄人衆の専門家は与えてくれていない。(それで仕方なく素人の私が勝手なことをやっている次第です。)
 
今回大木氏の著書『歴史・戦史・現代史』を読んで、ロシア・ウクライナ戦争について私が素人なりに考えて来た「社会の型」とも言うべき発想が、大木氏の言う「即興ではできない」というアイディアに触れ、私の頭の中のニューロンネットワークの何処かの部位が、ピカリと光ったような気がした。
 
「型」は、作るのは大変であるが、壊す(棄却する)のはもっと大変である。
あくまでも「窮極的な意味において」であるに過ぎないが、ロシア・ウクライナ戦争は「社会の型」が強固になり過ぎて「即興」が利かなくなった国と、これから「社会の型」を作ろうとしている国との戦いである。
 
我々のこの国も、どちらかと言えば前者の国と同じような性格を持っているのかも知れないが、今回は困難な生成過程の途上にある後者の国を、国家として明確に支持・支援する意思を表明している。他の国だけでなく、自分達もなお生成過程にあるということを、強く意識することが出来るようになれば、それが我々にとっての希望にもつながって来るような気がする。
 
話が逸れてしまったが、私としては、大木氏の「即興ではできない」という言葉からも触発された「社会の型」の発想を、物語生成論の他、その社会(国)に蓄積された「社会的スキーマ」(スキーマは認知科学の言葉)という考えも取り入れて、考察して行こうと考えている。
 
ついでに言えば、ロシアにおいて、レーニンが基礎を据えスターリンによって体系的に整備された、「逮捕/拷問/銃殺/強制連行・収容・労働」などから成る「社会政策」システムは当然ながら、それらを一貫して支えるチェーカー以来の伝統が決定的に重要な役割を果たしたと思われる。長い歴史の中で、蛮行が、「理想に燃えた原始共産主義における草創期の甚大な犠牲」の物語などに、よもや回収されて行くことのないことを祈る。そのための物語戦でもある。
 
縦割り型専門家ではなく、(何をやっているのかなかなか答えられない)曖昧で素人的な専門家としての私は、玄人衆の専門家による膨大な研究蓄積の中の氷山の一角にしか手が届かないだろうとはいえ、今後それらを参照させていただきながら、社会の型の物語生成モデルとも言うべきものを目指して考察を重ねて行きたいと思っている。
とはいえ、それ以外にも、AIや認知科学本体の調査・研究や、生成AIを含めた物語生成システムの動向の調査・研究や、大芝居だけでなく小芝居や今はなき幻の芝居も含めた歌舞伎の調査・研究など、やることは多いのですが。(せっかくの授業なき期間なのですが、暑過ぎる夏のおかげでなかなか進みません・・・・)

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