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ふしぎなあづささん

 まことは大学 1 年生を終えようとしていた。定期試験を終えて春休みに入り、3 月に差し掛かっていた。長期休暇を利用した大学の勉強の先取りも飽きてきたので、パーっと遊びたい気分だ。
 まことは理系を選択し、教養学部に所属していた。2 年生までの成績で志望する専門学科へ進学できるかどうかが決まる。大学の数学や物理は、高校生の時背伸びして夢見ていた通り楽しく、あまり勉強に熱心でなく成績に一喜一憂する周囲の少なからぬ勢力とは異なり、この一年弱ひたすら勉学に没頭していた。
 だがまことは学びだけで大学生活を埋め尽くすつもりはなかった。先輩から、「大学生活で打ち込めるのはいくつもある候補のうちの数個だけ」というような格言を聞かされていたが、勉学の次点であることには是非とも打ち込みたかった。それは無論、恋愛——生まれてからの憧れだった女の秘密を暴くこと——であった。
 まことは大学入学からしばらくして、マッチングアプリをはじめ、見事初めての恋人を作った。女が商品のように陳列されるグロテスクさへの嫌悪より、女を知りたいという情熱が優ったのだった。その恋の初期は、男子校で女から隔絶された環境が育んだ幻想に誘引されて、激しく燃え上がった。初めて触れ合う手と手、初めて知る抱擁の至福、そして、初めて知る女の体・・・ 目前に迫る人生最大の神秘の前では、沸き立つ欲望にただ懇願することしかできなかった。
 だが、その恋の終局で、まことは女の幼稚さや残酷さをも目の当たりにしたのだった。人は、相手がいかに面倒を超えて自身に労力を割いてくれるかを愛の量の指針とする。まことの無知から来る幻想の炎を経験が弱め、「またお手紙を書いてほしいの」という女の懇願に難色を示したことに、愛の翳りと格差を見た彼女は、粗暴な言葉や「無視」という劣悪な女の陰湿な暴力を持って対するのだった。まことの初めての恋愛はそのように終端を迎え、初めのうちは必死にしがみついてきた彼女が、しばらくすると「新しい相手を見つけたの」「あなたは一生自分を賢いと思って生きていればいいわ」と吐き捨て変節する様を見て、女の冷酷さをも学んだのだった。
 まことはまたアプリを始めた。今度は廉価だがもう少し「治安の悪い」場所のようである。しばらくやり取りをしていると、一風変わった女性がマッチした。「あづさ」という名前のようである。他の女の多くはマッチしても応答しないか、しばらく会話したのちに突然連絡が途絶えるのであるが、彼女は積極的に話しかけてくるばかりか、直接会う約束まで簡単に取り付けられてしまった。新宿駅のカフェでお茶をしようとのことである。
 外に出るとまだ肌寒い。新宿に向かう途中、一人の女を知ったとはいえ、まだ不慣れなまことは浮き足立っていた。それが物言いに現れていたのであろう、先方からは「はーい」という素っ気ない返事。ムッとしたまことも負けじと「はーい」と返す。
 新宿に着いてカフェはどこか迷っていると、電話がかかってくる。女の声。流暢な日本語だが独特のイントネーションである。彼女のルーツは海外にあるのか? 帰国子女か何かか? そう戸惑っていたが、無事彼女と落ち合いカフェの席に着く。
 しばらく他愛ない話をした。
「ぼくは大学生で数学や物理を学んでいます。また恋愛したくてアプリをやっているんです。」
「私はアプリで数十人と会いました。その中で出会った建築士さんと喧嘩したから、しばらく関西に行って日雇いの仕事をしようと思っています。」
「建築士さん?」
彼女は見ず知らずのまことに半ば独語的に話す。
「アプリで会う人には色々な人がいて面白い。だから、とにかくたくさん会った。でも、建築士さんは特別。こうやってコップを取って口に運ぶ所作さえも美しいんです。あるべくしてあるというか。とても落ち着いた人。」
「へえ。」
「性行為のときは違うけれど。」
なぜ見ず知らずの女との会話にいきなり「性行為」などという単語が出てくるのだろう?とまことは怪訝に思った。
「とても激しくて情熱的なの。しばらく会えなくなる前に最後にしたかったのだけれど、私が生理だから。女性には生理がある。」
あづささんは女が固有のつらさを語る時の定型句をまことにぶつける。ますます怪訝に思った。
「では、恋愛の相手は探していないのですね。でも、せっかくこうしてお会いしたのですし、それにあなたはなんだか面白そうですし、もうちょっとお話ししましょう。」
まことは相手を女ではなく同性の友人のように捉え、話題を転換する。
「ぼくは大学の人間関係で悩んで、いろんな本を読んだんです。その中でも、ある精神科医の先生が書いた本が琴線に触れました。ムラ的共同体・・・ 村八分のムラです。あなたなら少しわかってくれるんじゃないかと思って。」
「なるほどね。気持ちはわかるわ。私も変わってると言われることが多いから。いじめられはしなかったけどね。」
そういうのがまるで読めないのかなぁと思ったらそうでもないらしかった。
「あなた T 大生なのよね? 私の父も T 大の天文学科を出ているの。私も本をよく読むの。今持ってるから見せてあげる。」
すると鞄から難しそうな漢字の多い本を取り出して見せてくれた。この人は自分以上に知能が高いなと思った。
「ここには、人は皆演技しているって書いてある。このカフェの店員さんは店員という役を演技している。私の父は父親という役を演技している。建築士さんは建築士さんという役を演技している・・・ でも、みんなそれに気づいていない。」
「なんだか言いたいことはわかります。自分が属しているコミュニティの規範って絶対視してしまいますよね。」
「ふん?」
「さっき言った精神科医の先生の本を読んで、考え方のコツがわかったんです。ぼくらは、身近な人がモラルと信じていることを信じて守る。それを破ると罪悪感を覚えるし、最悪罰せられる。でも、あくまでも適応のために表面上守っているのであって、それを疑いようのない絶対的なものとして見るのは、浅いんじゃないかって思うんです。それが演技してるってことじゃないですか!」
そうまことが興奮して叫ぶと、あづささんはうれしそうに笑った。
「さっきいろいろな本を読んだって言ってたけど、他にはどんな本があったの?」
彼女はまことに興味を示したふうだった。
それからしばらく話し込んで、そろそろいい時間だから行こうという話になった。

 まことはふと彼女を連れ込み宿に誘おうかと思った。だが、彼女があまりに奇抜であり、それを望んでいるかわからなかったので、怖気付いてやめた。そのまま店を出て彼女と別れて、電車に乗りながら、いつもと違うことをすると貴重な経験が得られるなぁとしみじみ思いながら帰路に着いた。

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