意識的な悪意と道徳の話

インドネシアで暮らすようになり、インドネシア系のアカウントをたくさんフォローするなかで、「『ネシア』を使う人とは友だちになれない」とか、「『ネシア』を使うアカウントはフォローする価値がない」とかいった辛辣なツイートが定期的にTLに流れてくるようになった。

わたしの周りだけでいうと、「『ネシア』は差別的表現である」というのを知らないでつかっている悪意がない場合がほとんど。わたし自身も恥ずかしながらインドネシアに住むまで知らなくて、ふつうに「浜っ子」的な感じで現地の友人を「ネシアガール」と表記してみてはどうかとか考えていたりもしていた。Twitterには文字数制限もあるし。(もちろん封印した)

じつは道徳的な判断というのは、事前に悪意を内包していないと難しい。そもそもの悪意がないと、ほとんどの場合、「ネシア呼びはNG」という情報にアクセスできない。さきほど「浜っ子」みたいな例を出したが、我々は愛称をつくるのに省略化という方法をもちいがちで、「インドネシア」を略したいとき「インド」は混乱を招くので「ネシア」になる…というのは、ふつうにおこりえる。悪意あるコミュニティにふれていないと、道徳的に悪であることに気づけない。気づかないうちに地雷を踏んでしまう。悪意ない人は、悪意ある情報にアクセスできないし、だからこそ善し悪しの判断すらできないものなのだ。

わたしも広告にかかわるものとして、頻繁に起こる企業広告の炎上に胸を痛めている。ほとんどの場合、みんなが邪推するほど、作り手には悪意がない。悪意がなけりゃなんでも許されるのか!ということでもないんだけど、悪意がないからこそ炎上が起きている。一般企業で「炎上でひともうけ!」なんて考えるところはまずない。炎上の起きない広告作りをするには、まず作り手自身が悪意を内包しておかないといけないというパラドクス(?)が生じる。自分や誰かを悪意から守るには、あらかじめ自分自身に悪意を内包していないといけないのだ。これはもう倫理観とか知識とか以前の問題だと思う。

やさしい人って、たんなるバカでお人好し…という場合も多いのだろうけど、基本的に人にやさしくするには自分自身に悪意がないとできない。悪意を想定し、想定される悪意を排除した態度をとることで、「やさしい」「正しい」人になれるのだ。

悪意を併せ持っていないと道徳的に善くは生きられないというのは、なんとも難しいことだなあ。

※ちなみに、日本以外のほとんどでは、「インドネシア(Indonesia)」は「インド(Indo)」と略す。「インド」は、「India」だから。インドネシアの現地企業には「Indofood(Indomieという世界で三番目?においしいと言われる即席めんなどを製造している)」とか「Indomaret(コンビニチェーン)」などがある。
※最近はジャルジャルの「ドネシア」コントが話題になったことから、「ドネシア」と略すのはどうかという議論があるとかないとか。
※インドネシアには「ライフネシア」という日本人向けの情報満載のフリーペーパーがあり、それで「ネシア」を使っちゃう人もいるとかいないとか。


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