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夜のひとりごと

 息子が九時に寝て、旦那さんが十時に寝て、虎ちんが十一時に寝た土曜の夜です。東京すみっこごはんの続編のゲラ作業を途中で一旦しめて、何となくnoteに書こうかなと思い立ちました。

 思えば、不特定多数に向けてこういうのを書くのは、mixiで日記を書いていた頃以来で、海に向かってボトルメールを出すような、ちょっとしたワクドキ感を久しぶりに感じています。知ってます、mixi? SNSの走りみたいなところで、けっこうなブームになったと記憶しています。みんなが匿名で日記をつけたり、メッセージを送りあったり、そこで知り合ってリアルに集ってオフ会をしたりしてました。mixiには、約十年間つづいたやりがい搾取時代の日記が保存してあって、「今日は下っ端ダンスを踊りました」とか、「太陽が月に代わり、また太陽になりました」とか、「振られました。職場の床に布団を敷いて寝てました。」とか書いてあって、その日記に対して、まったく面識のない人から励ましのコメントが入っていたりして、青くて痛くて脆い感じがたまならいのと(すみません、読んでないのに勝手に拝借してすみません、感じとかつけてすみません)、虎ちんの子猫時代の写真とかも残っていたりするので、もしmixiから何らかの理由で記録が失われてしまったら、喪失感が半端ないことになると思います。

 あ、ここまで書いておいてなんですが、ひとりごとなので、なんの落ちもないです。だらだらトークです。本を読むより書きたい気分の夜だったのです。

 mixiに書いていた頃、後半は小説家を目指して小説教室に通っていたけれど、それまで小説をきちんと書いたことはなくて、下っ端ダンスを踊っているうちに、二十代の後半も過ぎて三十を越えていたというのに、未だに人間としてこの世界にいることに違和感を感じているような、生き方がわからなさすぎて辛いんだけどその正体を掴めずにいるような、誰とも何ともつながっていないただの小さな点であるような・・・とにかく、自分がただのがらんどうであるという空虚さ常に抱えて、海月みたいに漂っていました。とあるインタビュアーさんに後々、「その状態を、孤独、という風には捉えなかったの?」と指摘されて、そうか、私は孤独だったのかと気がついたのですが、もっというと、仏教ではもうずいぶん前に仏陀がその空虚さを自我と名付けていたらしいとわかった時の衝撃よ。なぜ、哲学の授業を寝る時間にしていたんだー!! そうか、この空虚さは自我というのか、そして人類は何千年も前からこの自我のことを扱いかねてたんだなと思ったら、とてもとても楽になりました。ほぼ時を同じくして小説を書き始め、人間としてのこの世界での生き方がわからない状態というのを脱したのですが、その相関関係は今でもよくわかりません。少し大げさに言うと、私は書こうと思ってこの世界にやってきたんだな、と理屈でなく思ったのですが、この感覚は脳が見せている幻かもしれないですしね。ただまあ、とにかく事実として、書き始めてからは、それまで抱えていた空虚さというものはすうっと消えていきました。だからなんなんだよっ!っていう終わり方できるの最高。日記大好き。

 明日は晴れるかなあ。おやすみなさい。


※写真は家のそばにいた殿様バッタです。写真を撮ろうとしたら、ものすごい興味津々にこっちを覗いてました。

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