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ヤブ医者のレッテル

藪医者─診察・治療の下手な医者。

 インターネットで検索すると真っ先にこのようなワードで登場する。
 余談だが、「藪」の字が充てられてはいるが、草木の生い茂った藪とは直接の関連はないようだ。もともとは“野巫”と書かれていたとも言われ、野巫とはまじないを使った怪しげな治療しかできない田舎の医者を指すらしい。昔はまじないも立派な治療法ではあったのだろう。それが医学の進歩に伴い、いつしかまじないに頼るような治療法、ひいてはそのような治療しかできない医者は相手にされなくなっていった…
 ご多分に漏れず諸説あるはずなので、あしからず。
 さて、ここからが本題。
 2月半ばのある日、夜遊びをして日付をまたぎ、クタクタになって帰宅し、デリバリーで注文した某牛丼チェーンの定食に生卵と豚汁のセットを付けて食べた。いつの間にかウトウトとそのまま眠りに落ちてしまい、ほどなくして何か様子が変なことに気づき目を覚ました。下半身に気持ちの悪い違和感。そして嫌な予感…
「もらしちゃってる…」
 しかも小ではなく大。動転しているうちに腹がキュルキュルし始め、痛みと共に強烈な便意をもよおしトイレへ駆け込んだ。間一髪、聞いたこともないようなもの凄い破裂音の後、完全に水溶化した便がバケツをひっくり返したような勢いで垂れ流された。そのまま10分ほどうずくまるように便座に座り込み、ようやく治まったタイミングでトイレから出た。
 その後も水だけでもと思い口にするのだが、すぐさま腹は急降下。夜になっても治まる気配はなく、さすがに辛くなって本当は良くないことと知りながら下痢止めを飲んだがまったく効かない。それどころか油断すると漏れてしまう始末…決死の覚悟で外出し、近くのドラッグストアで購入した大人用紙パンツを履いて過ごした。まさかこんなに早くお世話になる日が来ようとは…
 結局その夜は満足に眠ることもできないまま朝を迎えた。で、仕事である。当然だが行ける状態ではない。連休明けで人手もなく超が付くほどのヒンシュク覚悟で事情を説明し休みをもらうことができた。
 朝イチで医者に行こうと思い、熱を測ると平熱より少し高いレベル。特に連絡することなく向かった。症状を説明すると発熱しているわけでもないのに個室へ通された。下痢ということで感染症を疑ってのことなのかもしれないが少し違和感を覚えた。待っている間に検温すると微熱程度に上がっている。ほどなくして看護師さんが現れ、「念のため」と前置きをしながら採血とコロナの検査をすると言う。さらにこの病院ではインフルエンザの検査はできないとも言われた。季節は真冬の2月半ば、ちまたのニュースでもインフルエンザが流行しているような情報もある。なのにインフルエンザの検査はできない? 単純に検査キットが不足しているだけなのかもしれないが、それならそう言ってもよさそうなところを「うちではインフルエンザの検査はできません」という表現。穿った見方をすれば「インフルエンザの検査をするつもりはありません」とでも受け取れそうである。
 コロナは陰性、採血でも特に目立った異常は見られず、この時点では【急性胃腸炎】かもしれない…みたいな確定診断でもなさそうな言い回しをされ、整腸剤と痛み止め程度の薬を処方された。とにかく毒素を体外へ排出しなければならないので無理やり下痢を止めるのはご法度らしい。まぁ、それくらいの知識は僕も持ってはいたが。
「実は昨日定食に付けた生卵を食べたんですが、それが原因ということはあるんですかね」
 診察が終わりそうな雰囲気を察知し、僕は何となく思っていることを口にしてみた。
「血液からは目立った異常は見られないからウイルス感染ではないね。それに日本の卵では食中毒はほとんど起きない」
 はぁ、なるほど…
「今日一日水分以外は絶食して、明日の朝状態を見て食べられそうならお粥だけ食べなさい。それでもダメそうなら週末の金曜にまた来てみて」
 はい、終了─
 ということで早々に会計を済ませ、薬局で薬をもらい、2ℓのお茶とスポーツドリンクを購入し帰宅した。
 絶食しながら水分だけの補給はなかなかに苦しかった。その後は漏らすということはなかったが、その日も家では一日中紙パンツを履いて過ごした。回数こそ減ったものの水溶性の下痢は続いていたので、オムツを付けていると言い知れぬ安心感に包まれるのだ。
 そのまま二日目も食べ物は何も口にすることはできなかった。水溶性の下痢は続いており、もはや便とも呼べないほど水分だけの状態。胃の中に何も入っていないのだから当然だろう。処方された整腸剤も効いている気配はない。一日2ℓの水分を摂るように言われてはいたが、やってみるとそう容易いことではなかった。
 三日目。やはり朝から下痢は続く。絶食して72時間、体調の悪さにひどい空腹も加わり、とんでもなくイライラが募ってきていた。明日を待たずに再度診察してもらおうかと思ったが診察券には木曜は休診日との記述が…頭にきて真っ二つに割りたくなったが、何とかぐっと堪えた。
 どうしても口に水分以外の何かを入れたい。ネットで検索すると、僕のような状況の場合に飴なら…のような記述を見つけた。すぐさまコンビニへ飛んでいき、数種類の飴、プラス目についたグミも購入した。大好きなのだ。グミだって飴みたいなものだろう。呼び名も似てるし。そんな独自の勝手な解釈くらい許されたっていいではないか。
 ほどよい噛み応えに歯も顎も喜び、甘い香りと味に舌と鼻が小躍りしている。あぁ…この世にグミがあって本当に良かった。グミの神様、ありがとう!
 イライラもだいぶ収まり、心なしか腸の方も落ち着いてきたように感じたので、夜はいよいよお粥でも作ってみようか…とルンルンしていたのも束の間。夕方になり、急な寒気を感じて恐る恐る検温してみると、38.3℃の発熱…なんでやねん! すっかり食欲もなくなり、その日も傷心のまま床についた。
 四日目。結局何一つ回復せず、むしろ熱まで上がっていたので再度診察を受けることにした。発熱していたので念のために電話をすると、やはりインフルエンザの検査はできないと前置き。一瞬迷ったが、病院を変えて始めから経緯を説明するのも面倒なのでそのまま受診することにした。
 この前と同じ個室へ通され、高熱が出ていることを伝えると再度血液検査とコロナの検査をすると言われる。この時点でやはり(面倒でも)別の医者に診てもらおうかと心が揺れ始める。しばらくしてこの前診てもらった年輩の院長が部屋へやって来た。血液検査では目立った異常はなし、コロナも陰性。この前とほぼ同じことを告げられた。
「食事も摂れてないし、水分も足りてないようなので点滴は打とうかね」
「あの…熱も高いのでインフルエンザの検査してみた方がいいですかね?」
「必要ない。どうせ同じような診察しかできないよ」
 カッチ~~~ン。
 水分とブドウ糖とかの入った点滴を受けながら僕の心は決まった。
「別のところでインフルエンザの検査をしてみる!」
 ポタポタとのんびり落ちる点滴がもどかしい。一刻も早くここから抜け出したいのに!
 正味1時間ほどではあったが精神的時間は半日くらいに感じた。
 この病院のいいところは会計が早いところだ。そこは評価したい。僕は逃げるように飛び出した。
 さて、どこで診てもらおうか…東京都のサイトで発熱外来のある病院を検索すると、以前に扁桃炎だったり花粉症だったりで何度も通ったことのある耳鼻科がヒットした。もうここしかない。早速電話してみた。
「あの…5年ぶりくらいになるんですけど、実は昨夜から38℃を越える発熱をしてまして…診てもらえますでしょうか」
 あえて別の病院で一度診てもらったことは伏せた。
「はい、大丈夫ですよ」
「インフルエンザの検査とかもしてもらえるんでしょうか」
「それは診察してから先生の判断になりますが、はい、可能ですよ」
 良かった! 先生の判断…というのが若干気にはなるが、とりあえず少しでも前進できそうだ。
 午前の診察には間に合いそうにないので午後イチで伺うことにした。
 少し出遅れて15分前くらいに着くと待合室はすでに患者さんでいっぱいだった。受付で午前中に連絡し発熱していることを伝えると、申し訳なさそうに外で待つように告げられた。熱発38℃越えの状態で、真冬に外で待たされるのはなかなかの拷問だが致し方ない。幸いにも風はほとんどなく、傾きかけてはいたが日当たりも良かったので何とかしのげた。そして、1時間ほど待たされ、ぎりぎり太陽が沈む前に診察室へ入ることもできた。文字通り不幸中の幸いである。
 僕の顔を見ると、思いがけない患者の訪問に先生の顔は少し驚いているようだった。
「なに、今日はどうした~久しぶりだなぁ」
「実は昨日から熱が出てまして、さらに火曜からずっと下痢が止まらず何も食べてないんです」
「それは大変だなぁ」
 と言いながら、耳鼻科らしい器具で普通な診察が始まりそうだった。危険を察知した僕は、「インフルエンザの検査ってしてもらえないですかね?」迷ってなどいられなかった。本来の目的は絶対に果たさねばならない。
「必要ないと思うけどなぁ」
 出た──────ぁ。
 僕は引き下がらなかった。
「何日も会社を休んでいるんで、違うなら違うで連絡もしなくちゃならなくて…お願いしたいんですが…」
 そう言うと、先生は渋々(に見えた)検査キットを取り出して、綿棒の長いやつを僕の鼻へ突っ込んだ。午前中のコロナ検査に続いて本日二度目の鼻グリグリは、血が出てるんじゃないかと思うほど痛かった。
 結果はあっという間に出た。
「お、A型出たよ!」
 先生はなんだか嬉しそうに検査キットを僕に見せた。
「やって良かったなぁ~」っておいおい。あなたがその口で言うんですかっ!
 帰宅するや否や、処方してもらったインフルエンザの薬を使うと自分でも驚くほどみるみるうちに体調が良くなってくるのが分かった。熱も下がるし下痢もピタッと止まったのだ。耳鼻科の先生曰くインフルエンザと腸炎の因果関係ははっきりしないらしいが、こうも明白に効果が表れるとまったくの無関係とも思えないのだが。
(注:インフルエンザB型は胃腸に影響を与えることもあるようです)

 火曜からのひどい下痢の原因が仮にインフルエンザの影響だったとすると、そもそもインフルエンザの検査ができない病院を選んだ僕も悪いのだろう。だが、医者であるなら症状だけではなく、季節や社会の雰囲気を考慮し、考えられる可能性をもう少し模索してくれてもよかったのではないか。自分のところではできない検査を勧めることはプライドが許さないのかもしれないが、患者からしたらそんなものどうでもいいのだ。むしろ検査を勧めてくれたのなら、結果として先生の評価は一気に上がったはずである。
 それにしてもインフルエンザの検査とはそれほど面倒でやりたくないものなのだろうか。流行すればするほど検査キットの不足や感染症患者の増加などで院内もバタバタするだろうし、誰もかれも…というわけにはいかないのかもしれない。
 だが、今回のことを踏まえて僕には一つ決めたことがある。
 冬の時期、体調を崩して熱が少しでもあるならインフルエンザを疑ってみよう、と。
 そして、苦しんでいる患者の気持ちをないがしろにするような医者には、迷わずヤブ医者のレッテルを貼ってやろう、と。

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