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人との別れは自分との別れ


またお得意なアイデンティティ的なこと、話してもいいですか?

今日は『人と疎遠になる=自分とも疎遠になっている』って結論に至った話




今月友達と会うことが多かったのですが、やはりこのアイデンティティ的なことを考えさせられるんですよね。


  • この子と会うときの自分

  • このメンバーで会うときの自分

  • このコミュニティの中の自分


どれも、どこか同じでどこか違う。


  • 話す内容も

  • 自分の立ち位置も

  • 毒舌の割合も

  • ぶっちゃける度合いも

人によって全然変わってくる。


共通しているのはチラッと見せる真面目さくらい?




友達と会うことと、自分に会うこと



それでふと、考えたこと。


私は友達と会うことも楽しんでいるけど、その友達の前での自分の在り方も楽しんでいるんじゃないか?




  • Aちゃんの前での自分は、ちょっと思考的な話が多い

  • BちゃんとCちゃんの前での自分は、下ネタ大好き人間!

  • Dちゃんの前での自分は、毒舌混じりな笑いを取っていく感じ

  • Eグループでいるときは、頭で考えずヘラヘラしているだけで楽しい時間


まぁ、こんな風にいろんな自分がいるわけで。


でもそんな自分になれることを、どこか求めているんじゃないか?

そんな自分にも会いたくなっているんじゃないか?



私は友達に会うのと同時に、その友達の前での自分にも会いに行っている…のか?




昔の自分を思い出して気づく



この間保育園からの友達と遊んだ時に、そんなことに気が付いたんです。

懐かしい話をたくさんしてたときに思ったんです。


あの頃の自分はもういないなって。

あの頃の自分とは私はお別れしたんだって。


すごく仲が良かった友達がいました。

でも今は連絡先も知らないくらい疎遠になっています。



誰かと会わなくなれば、そんなコミュニティの中での自分もいなくなるってこと。

疎遠になればなるほど、誰かと会っていたときの自分も消えていく。




変化と別れは隣り合わせ



出会いと別れって繰り返されるけど、自分が居心地の良い人が今周りに残っています。


人ぞれぞれ、徐々に周りの環境が変化していって、その中での自分も変わっていく。

そんなズレがどんどん大きくなって疎遠になっていくんだろうな。



今周りにいる人も、私自身が変わっていったら関わらなくなってしまうのだろうか。

私はその人の前の自分を求めなくなってしまうのだろうか。



基本的に変化は好き。

だけど、変化は怖いとも思った



本当に仲の良い友達とは、変わらない何かでずっと繋がっていきたい。

そんな友達の前での自分もずっと好きでいたい。




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