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【その日その本】『ここで唐揚げ弁当を食べないでください』 小原 晩

集中して本を読むと、本を閉じた後も、世界をその本の文体で受け止める体になることがある。目の前の景色や自分の動作をなぞる頭の中のモノローグが、その本の文体にぐっと近づく。世界は世界でありながら本の続きになって、私は私でありながら主人公になって、ここはここでありながら物語の舞台になる。その感覚は時間が経つにつれ薄まっていき、数時間後にはもう思い出せない。だからその感覚が残っているうちに、書き留めておきたいと思う。その本を読んだその日の私ごとひっくるめて、書く。

仕事をしようと行った近所のイオンのスタバは、超満員だった。近くの会場でライブがある日はいつもこうだ。開演まではまだ時間があるから、少し待ったくらいでは席は空かないだろう。スタバは諦めて、少し歩いたところにある古い喫茶店に入る。古い喫茶店といっても、映えるレトロ喫茶、ではなく、中華で言えば町中華みたいな、古ぼけた扉を押すのにちょっとだけ勇気が要る、中にはテレビがあって相撲中継がかかっている、そういうタイプの喫茶店。私はそういう喫茶店が大好きで、この店にもたまに来る。

おばちゃんにトマトジュースを頼む。仕事をしようかとも思ったが、パソコンを開くと店内で浮きそうだなとなぜか遠慮して、鞄に入っていた本を開く。『ここで唐揚げ弁当を食べないでください』。歌人でもある小原晩によるエッセイ集で、初の著書。東京での生活の回想を中心に、特別でない日々の中の特別なことが、ぽんぽん弾むゴム毬みたいな愉快な文章で綴られる。

本の中のエピソードはどれも、心の中にありふれた愛しさを呼び起こす。それは、エピソードがありふれているというのとは違う。語られるできごとやその時の気持ちは、これでもかという一回性の光を放っている。その上で、ひとつひとつの文章を辿る時感じるきらめきが、ありふれている、と思う。つまり、このみずみずしさはきっとどこにでもあるし、このうれしさを、切なさを、私はよく知っている、と思い出せる。「ありふれた」が褒め言葉になることがあるなんて知らなかった。

そんな感想が出てきたのは、なんといってもポップにスッと懐に入り込んでくるその文体のせいだろう。文体の心地よさにあれよあれよという間に丸め込まれてしまって、主人公(著者)と自分の境界があいまいになる。スゴ技だ。

これはただの私の予想だが、自他の境界を揺らがせてくる本人の小原晩さん自身は、自分の書く文章と自分の内面との距離を上手にとれている人なのではないかなと思う。人間の内面が、しかもものを書く人の内面がこんなにポップなわけはない。どろどろのぐちゃぐちゃだ。私は、身の回りのできごとや自分の考えていることを書く時、このぐちゃぐちゃとの距離が上手くとれず、毎回のたうちまわった末、中途半端なものを書いてしまう。

私がこれを読んで、ずるいな、羨ましいな、と思ったのは、すごく近く見えて実は近すぎない、ベタベタと馴れ合わずしかし遠すぎもしない、その距離のとり方なのだ。本音をさらけだしていないとか、真実が書かれていないとか、そういう批判をしているのではない。どうあがいたって、本音や真実と書いたものとの間には距離が、どうしたってあるのだから、その距離を読者にとっても自分にとっても心地いい幅で保つことは、書く上ですごく重要な技術だ。身近なできごとや感情を綴り、そのリアルさが魅力でもある本書に「距離を感じる」というのは、ややわかりにくいかもしれないし、褒めているように見えないかもしれない。だけど、わかってくれる人もいると思うし、褒めてもいる。

喫茶店で最初から最後まで、一気に読み終わる。まだだいぶ残っていたトマトジュースを飲み干す。するといきなり、隣の席のおばちゃんが「わぁ、すごいおっぱい!」と言った。一瞬ぎょっとした後、テレビに目を向けると、たしかにすごいおっぱいの力士が映っていた。こんなできごとの可笑しさが、『ここで唐揚げ弁当を食べないでください』の延長線上の世界ではなおさら愛しい。

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