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『それでも僕はここで生きる』#35.救世主

#35 .救世主(メシア)

翌朝、僕は南の声で目が覚めた。とても素敵な朝だった。この生活が続けば良いのに、そう感じてしまった。この島に来て1日目で、すでにそう思ってしまうなど、かなり複雑な気分だった。ここに来てから、複雑な気分がどうも抜けない。
南は小さいながら、自分の家を持っており、そこで僕は二人でこの先数日間は過ごすことになる。この島の住人は基本自給自足で生活しており、恋愛や結婚も自由に行うことができた。しかし南は長くここに暮らしていたが一度も恋愛はしていないという。そもそもこの島に来る人間は精神を回復する必要がある者が大半であったため、あまり活発な恋愛などは行われないのだという。
南は朝早くから森に行った。
「いつも森で木の実やきのこなどを採っているの」
南は森の道中でそう言った。
「この森は不思議な力があると言われていて、私も森に入るとなんだか辛かったこととか、悩み事とかがスーッとなくなっていく気がするの。でも、この島は悩み事とかあまりできないんだけどね」南はそう言って僕に笑顔を見せた。
その笑顔は心からの笑顔だった。小学生の頃に僕に見せた笑顔だった。
確かに成長するにつれて、南は表情が豊かではなくなっていったようにも思える。何より、必要以上に大人びていたような気もする。
僕は彼女の弱さに気付けなかったことをとても申し訳なく思った。
彼女の心の核にある闇の部分すら、僕はわかっていると思っていたのに。
生茂る木々の隙間から光が差し込んできて、僕の進む道を示してくれているように感じた。新緑の香りとあちこちから聞こえる鳥の鳴き声はまるで僕をこの島に迎え入れてくれているように心地よくふんわりと僕を包み込んできた。
「ついたわ」少し無言の時間が続いた後、歩みを止めた南がそう言った。
そこには食べられそうな実をつけた木がたくさん生えており、野生の動物たちも数匹見受けられた。
「こうやって採るのよ」南は僕に向かってなれた手つきで木の実の採り方を教えてくれた。それに倣(なら)って僕も木の実を採取した。作業をしている彼女の横顔はとても美しかった。僕は幼い頃のことを思い出した。
いつもは松下と南と僕との三人で遊んでいたのだが、松下がいない時がたまにあった。そういう時は、大体僕は松下を伴わずに南の家にお邪魔した。彼女の母親はとても親切な人で、僕が遊びにいくと必ずケーキをご馳走してくれた。
南の部屋には少女漫画がたくさんあり、僕は彼女の家に行くとそれを一緒に読む時間が好きだった。他愛の無い時間だったが、それだけで幸せだった。
「見て!」背後から南の嬉しそうな声が飛んできて、振り返ると、彼女の視線の先にはリスがいた。リスはすばしっこく僕らの周りを走り回った後、森の奥に去っていった。
木の実採取が終わり、森から家に帰ると、もう夕方だった。
集落の広場では何やら島民たちが忙しく準備していた。
「あれは何を準備しているの?」僕は南に尋ねてみた。
「この島では週に一回、宴会があるの。」
僕は宴会で島民と打ち解け合い、かなり楽しい夜を過ごした。

僕は数日、南とその島で過ごした。島での暮らしは楽しく、まるで楽園のようだとも思った。もう島から帰らなくても良いかとも思い始めていた。

ある日、僕と南は軽い登山をしようと、島で一番高い山に登ることにした。一番高い山といっても1時間ほどで登れるくらいの低いもので、僕らは昼食を持ち、登山を開始した。
登り始めてから五十分ほど経過し、僕らは島が一望できるところまで到達していた。すると、不意に、島を大きな地震が襲った。僕らは動けなくなり、その場に座り込んでしまうしかなかった。揺れが収まり、二人で安堵していると、今度は続けて、海から大きな波が島を襲うのが見えた。巨大な波が集落を飲み込もうとしていた。
南は悲鳴に近い声を上げて泣き叫んでいた。僕は胸が苦しくなった。
「いや!みんなが死んじゃう!」南は集落の方を見つめて地面に膝をつきながら泣いていた。
僕の心も穏やかではなかった。僕の苦手な海が目の前に迫っていたのだ。僕の目の前で、人を殺しているのだから。
建物が流されていくのが見えた。
僕は高台に走る男の姿を捉えたが、波はその男を容赦無く飲み込んだ。彼は海の餌となった。
水面(みなも)には死体が浮いているのを確認できた。
悲劇の後僕らのいる高台には、この世にいるとは思えない静寂が訪れた。僕を包む静寂の端で、南は啜り泣きを続けていた。
ここは、彼女の人生だった。このような終わり方で、本当に良かったのだろうか。僕はそう思ったが、この思考の無意味さを悟って、やめた。
彼女の現実からの逃避は、僕には邪魔をしてはいけない行為であったのだと感じた。僕は僕なりの正義を振りかざし、彼女をこの島から「救う」ことを目的としていたが、彼女はここから出ることが「救済」となるのではなく、地獄に引き戻されるだけなのだと、僕は思った。僕の未熟さが彼女の心を蝕んでいたのかと思うと、いっそ、彼女の前から、永遠に消えた方が良いのではないかと考えた。
自分が知らないうちに彼女のことを殺してしまう命なら、ない方がよかったのではないか?彼女の目の前に再び現れた僕は「救世主(メシア)」ではなく「殺人鬼」に見えたのではないだろうか。
考えを巡らせていると、彼女は僕に寄り添ってきた。
「みんないなくなっちゃったね」と言って一筋の涙を流した。
頬を伝う涙を、僕はそっと手で拭った。
彼女の表情には笑顔が見えた。とても控えめな笑顔だったが、その笑顔で、僕の心には一筋の光が差した。
空は分厚い雲に覆われていたが、次第に雲間から陽の光が差し込み、神秘的な景色を作り出していた。
「帰ろうか」僕は南にこの島から出る提案をした。
「うん」彼女は俯き、そう言った。

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